第35話 「来客中でしたか?」Aパート

「ありがとうございました!」


 スーツの集団が退店すると、朝のラッシュ時にひと時の空白が生まれた。次の波が過ぎる頃には恐らく客足も引き始めるだろう。そこまで来れば、夜勤の終わりも近い。


 集中力が切れてきたこともあってか、入り口付近のレジに立つ坂口は大きなあくびをしたところだった。そこでちょうど自動ドアが開き、チャイムと共にヒールの足音が店内に鳴り響いた。


「外から丸見えですよ」


 明るい表情を見せる足立がレジの横を通り過ぎると、お花畑のような香りがした。


「あぁ、失礼しました」と坂口が答えると、屈託のない笑顔で手を振りながら、足立はドリンクコーナーへゆっくり進んでいく。


「やっぱりさ、あの子は良いよ」


 気配を感じさせずに現れた北村は、足立の後ろ姿を眺めていた。坂口は先日足立が話していたことを思い出し、ついその前提で「ガールフレンドは一人が鉄則ですよね?」と尋ねていた。


「は?」


「『二人目は色々と問題が生じる』と聞いたことがあります」


「まぁ、そうだろうな」


 北村は何気なく答えた後、突然目を見張らせ、「お前、彼女いるの!?」


「僕ですか? 僕にガールフレンドはいません」


「なんだ」北村はふっと息を吐き出し、「今から二人目の心配してんじゃねーよ」


 北村は坂口のそばに寄ると、引き出しの備品をチェックするふりをしつつ、「あの子さ、俺の映画に出てくれないかな?」と小声で言った。


「なるほど、そういう対象でしたか」


「は? 他にどういう――」と話しかけたところで、客がレジにやってきた。


 北村は隣で手早くサポートをしながら、目線は足立の方へ向けている。客が去ると今度は肉まんのショーケースを点検するふりをしつつ、「立ち姿がさ、しっくり来るんだよなぁ」と言った。


「スタイルが良いのは確かなんだけど、何かこう、としてるっていうかさ」


「シュッ、……ですか?」


「まぁ、お前には分からんだろうな。この芸術的な感性――」と北村が話しているところで、足立がレジにやって来た。それに気づいた彼は、そそくさとバックヤードへ退散した。


「北村さんって、今の人ですよね?」


 足立は財布を出しながらそう言うと、「高梨さんとの関係について、聞いてみました?」と坂口に尋ねた。


 坂口は商品をレジ打ちしつつ、先ほどの会話を思い返す。


「二人目のガールフレンドに問題が生じる件については、同意していましたね」


「えっ!?」


 足立は少し考え込み、「嫌な奴ですね!」と答えると一人納得したような表情を浮かべ、店を去っていった。


 勤務時間を終え、早番に引き継ぎをした坂口はバックヤードに荷物を取りに行った。ひと足先に来ていた北村はすでに着替え終わっており、椅子に座って珈琲を啜っている。


 彼はいつもチェックのシャツを着ているけれど、毎度少しずつ色味や線の幅が違う。『いっそ同じシャツを大量に買い込んだ方が楽ちんなのにねぇ』と、以前に高梨に指摘されていた。


 その時は彼も強気で反論をしていたが、最近は坂口が着る服を見ると、どこで購入したのか尋ねてくることが多い。


「お疲れさまです」と


 坂口が挨拶をすると、「――坂口君。ちょっとそこに座り給え」と北村は妙に畏まった呼び方をした。


 それに加え、彼は手招きをしている。これは彼が頼みごとをする際の組み合わせであると、坂口は経験則として心得ていた。


「あのさ、お前のお隣さんの事なんだけど」


「足立さんですか?」と答えつつ、坂口は彼の向かいのパイプ椅子に腰掛けた。


「いや、名前は知らねーけど。だから、お隣さんだよ」


「一応僕には、両隣にお隣さんがいることになるんですが」


「いや、反対側の女の話な訳ねーだろ」


「反対側は男性ですよ」


「そんな情報求めてねーから!」


 珈琲カップをテーブルに置いた北村は頭を掻きながら、「あーはいはい。それはそれは申し訳ございませんでした。こちらのお店に朝方よく来られる女性の方で、名前は足立さん? で、スタイルが良くて、いい匂いのする、今朝の八時五十分にも来られた、髪の長いあの子ですよ! ドゥ・ユー・アンダースタン?」と早口に述べた。


「はいっ」


 それに対し、坂口は屈託のない笑顔を浮かべている。


「俺の映画に出てくれるようにさ、お前の方から頼んでもらう訳にはいかないだろうか」


「僕がですか?」


「そう、君だ!」


 北村は坂口を真っ直ぐに指差し、「やっぱヒロインの雰囲気にぴったりなんだよなぁ」と吐息混じりに言った。「スラッとしてて、それに背も高いしさぁ」


 北村はを表現するように両手を上下に動かしている。坂口はその動きを目で追いながら、「ヒロインというと、映画の中で最も重要な役割を担う女性ですよね?」と尋ねた。


「ふむ、その通りだ」


「出てくれますかね? 平日は仕事があるので撮影にも参加できませんし」


「おっ! そういえばあの子の仕事聞いた? ほら、前に話したろ」


 北村はテーブルの上の珈琲カップを再び掴み取り、前のめりになりながら尋ねた。


「はい。聞きました」


「何やってるって?」


「事務職らしいです」


「へぇ。事務職ねぇ」北村は小さく何度か頷き、「で、業種は?」


「さぁ」坂口は立ち上がり、ロッカーから荷物を取り出しながら、「インターネット関係だと言っていました」


「詳しく聞かなかったのかよ?」


「聞きましたけど、会社が何のサービスを展開しているのか、本人は把握する必要がないらしいです」


「何だそれ?」北村は珈琲を一気に飲み干し、「それで仕事が務まんのかねぇ」


 さっと立ち上がると、カップをゴミ箱に放り投げた。


「とにかく、聞いてみるだけでいいからさ! 頼むよ」


 北村は坂口に近づき、見上げるような形で懇願している。


「……分かりました。聞くだけ聞いてみます」


 坂口はリュックサックを背負い、店を出た。後ろでは「サンキュー!」と叫びながら、北村がいつの間にか椅子に座ってくつろぎ始めていた。

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