第5章
もう一人いる?
第33話 「宇宙が好きなんです」Aパート
昨日はまたあの黒電波(全身黒い衣服の男を前野は心の中で密かにそう呼んでいる)に出くわした。
今日は周囲を警戒しながらランニングを開始しよう。今のところ、マンション周辺では見かけていない。
マンションから離れ、河川敷に沿った道が彼のお決まりのコースである。
大通りを駅と反対方向に進むと、川が見えてくる。一番近い橋を渡り、向こう岸を川沿いに次の橋まで真っ直ぐに進んでいく。
二本目の橋を渡って折り返せば、もと来た道を横目に眺めるような形で帰って来れるという寸法だ。
今まで走ってきたコースの中ではこれが最も安定しており、かつ効率的だった。住宅地を走ると細かく曲がる必要があり、ペースも安定しない。
同じコースを毎日走ることで、ペース配分からその日の調子を計ることもできるという、一石二鳥の作戦だった。
河川敷で過ごす連中を眺めるのも、なかなかに興味深い。
休日になると、野球の試合や家族連れのバーベキューで賑わっている。平日は愛犬を散歩させるマダムがいる程度だが、時にはブリーダーがフリスビーを投げて犬を訓練をしている光景を拝むことができた。
近頃はトランペットの練習に励む女学生をよく見かける。初めは聴くに堪えないほどの腕前だったが、今では力強い音を遠くまで響かせている。
ランニングコースのどこにいても聴こえてくるため、今では曲中の失敗しやすい箇所まで前野は把握しており、それゆえ彼女が失敗を繰り返してきた箇所を上手に弾けた日などは、彼の気持ちも奇妙な高まりを覚えた。
日が沈む前にジョギングを終えた前野は、マンションに戻った。黒電波を警戒しつつ、エントランスに入る。どうやら今日は来ていないらしいな。
「ふん。次来たら警察だな」
偉そうに独り言を呟きながらも慌ててポストを開き、郵便物を握り締めると、前野は内容も確認せずにエレベーターホールに移動した。決して臆病風に吹かれているわけではない。早いところシャワーを浴びたいだけである。
エレベーターを待っていると、後ろから不意に気配を感じた。神経過敏に陥っていた前野は、険しい顔つきで後ろを振り返る。
そこには白い男が立っていた。ボタンの多い小綺麗なシャツの上には、彫刻のように端整な顔が乗っている。
……なんだ、同じ階の住人じゃないか。先日、新入りの部屋を伺っていた際になぜか声をかけられたが。
振り返った瞬間に目が合ったものの、今では下を向いて静かに佇んでいる。
エレベーターの扉が開き、二人は中に乗り込んだ。前野は四階のボタンを押し、男は何も押さなかった。
「あの、先日はどうも」
エレベーターが動き出すと、柄にもなく前野の方から声をかけた。先ほど睨みつけたことに関して少々の気まずさを覚えたことに加え、前回の出会いについて釈明する必要性を感じていた。
「こんにちは」
男は呟くようにぼそりと答えた。どこか作り物めいた男の表情に、前野はさらに気まずさを覚えた。
「ま、前も、このくらいの時間に会ったよな」
前野は続けて話しかけたが、「帰宅時間ですから」と答える男は視線を一切合わせようとしない。
ダメだ、会話が続かん。
仕方なくこの場はやり過ごすことに決め、前野は口を噤んだ。
四階に到着すると、お互いが逆方向に歩き始めた。ふと前野が後ろを振り返ると、男は立ち止まってこちらを見つめていた。目が合うと唐突に口を開き、「今日は――」と言いかけたが、続いて奇妙な間を空けた。
「はい?」と前野が促すと、男は一度小さく咳払いをした後、「今日は、あの黒服の人が現れなくて良かったですね」と呟くように言った。
「なっ……」
男はそのまま会釈をすると、自室の方に歩き去った。
奴は、あの男について何か知っているのか?
呼び止めようかどうか前野が迷っているうちに、男は吸い込まれるように自室の扉の中に消えていった。
「……何なんだ、あいつ」
部屋に戻ってシャワーを浴びた前野は、忙しなく吹き寄せる風に揺れる風鈴の音色を味わっていた。牛乳の入ったコップを片手に、ベランダに出る。余った手で煙草に火をつけた。
「ふん、マジックアワーってやつか」
黄金色に輝く幻想的な夕暮れを見ていると、無性にビールが飲みたくなった。早くも煙草を一本吸いきった前野は、牛乳を飲み干してそそくさと部屋に戻った。
真っ先に冷蔵庫に飛びつきたいところではあったが、テーブルの上に投げ捨てた郵便物をこのまま捨て置くわけにもいかないか。
ほとんどは請求書だった。ぼったくりやがって。住民税だけはどうにも納得がいかないものだ。長く滞在した者ほど、敬うべきではないのか?
「ん?」
一通だけ、宛名が前野ではない郵便物が混じっていた。配達員め、手を抜きやがって。住所欄を確認すると、403号室と記載されていた。最近越してきた奴に宛てたもののようだ。
「…………」
これは、新入りの顔を拝める絶好の機会じゃないのか。
「……仕方ねぇなぁ」
にんまりと表情を緩めた前野は、小声でぼやいた。
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