第30話 「この人痴漢です!」Bパート
帰宅ラッシュ時ではあったが、運良く二人並んで座ることができた。仕事を終えた開放感からか、はたまた同僚と帰る方向が同じで気分が弾んだせいか、足立のメッキは徐々に剥がれ始めていた。
リナちゃんの言葉巧みな会話術の前に、彼女は糸人形のように踊らされている。何から何まで口が滑ったように漏れ出す、溢れ出す。それはまさしくダムの決壊に等しかった。
「先輩って、なんでそんなに愉快な性格をみんなの前では隠してるんですか?」リナちゃんは足立の顔を見つめながら、「その方が絶対可愛いのにっ」
褒められた……! と、反射的に気持ちが舞い上がってしまう。
どうやら足立は、他の社員と同じ術にかかってしまったようだ。その後も彼女は続けてこの上なく(それも盛大に)口を滑らした。誰にも話せない秘密の共有、その誘惑にはどうしても勝てそうになかったのだ。
「――なるほど。要はおしゃべりなうえに、隠し事が苦手なんですね」
リナちゃんは平然とした顔で足立という人間を端的に表現した後、間髪入れずに、「でも、口を滑らさないためには確かに効果的かも。さすが先輩!」と付け足した。
冷静に考えると、小馬鹿にされている……。末尾にほんの少し褒め言葉を加えるだけで相手を良い気分にさせてしまうところは、いかにもリナちゃんらしい手口である。
自宅の最寄駅に着くと、彼女はこの街に住む先輩として近くに三つあるスーパーのうちで最も使い勝手の良い店を教えてくれたり、駅の反対側にあるカフェが結構イケることなどを教えてくれた。
「それじゃ、先輩。私はあっちの映画館に寄るんで。また明日です!」
振り向きざまに垣間見せる女神的な笑み。足立にとって彼女は、電車一本のうちに以前よりも格段に可愛く思え始めていた。
これがあの子のやり方か……。不機嫌な時の顔はちょっとレッサーパンダに似ているなどと思っていたことが、今になって申し訳ない。彼女はひっそりと、心の中で懺悔した。
住宅地を抜け、足立はやがてマンション近くの大通りに出た。すると敷地の入口付近では二人の男が立ち話をしていた。ランニングウェアを着た男には見覚えがある。
……日本人離れした顔つき。あれは坂口の部屋を挟んだ角部屋の男だ! もう一人はお知り合い?
「何よあれ。全身黒ずくめね」
足立が近寄っていく間に、背の高い男はそわそわした様子でマンションの方に歩き去った。残った黒いトレンチコートの男はこちらの存在に気がつくと、濁った大きな黒目を見開きつつ、足立の方へと素早く歩み寄る。
「失礼。ちょっとよろしいでしょうか?」
「な、なんですか?」足立は全身黒ずくめの男から、一歩遠ざかって答えた。
もしかして痴漢? あっ、露出狂!
「これはひどく内密のお話になるのですが――」わざとらしく咳払いをした男は、一歩前に踏み出した。
足立は距離をとって身構えつつ、相手の顔をぐっと睨みつける。
「昨晩この辺りから、未知の電波が計測されましてね。それについて、何か心当たりはないかと思いまして」
電波? 一体何の話よ?
「先ほどの男性には逃げられてしまいました。何か後ろめたいことでもあるのでしょうかねぇ」
にやけた表情でふふふと笑いながら、男はさらに足立のもとへ近寄った。
「えっ、えっ?」
怖い。でも、……足が竦んで動けない!
「あなた、宇宙人を見たことは?」
続けざまに話す男は、もう目と鼻の先まで来ていた。足立は不意にパニックを起こし、男が胸元から何か取り出そうとするのを見るや「きゃっ!」と顔を伏せた。
胸元に手を入れたまま「……おや」と呟いた男は、足立をじっと眺めている。
「どうかしましたか?」
そこに突然、黒ずくめの男とは別の声が足立の耳に届いた。顔を上げると、駐車場の方から白いシャツを着た男が歩いてくる。
イケメン……。ってあれ? 見たことのある顔。そうだ! この前、駅の階段で助けてくれた美男子! どうしてこんなところに。
「いやいや、私はちょっとお聞きしたいことがありましてね、その――」
エラの張った男は再び一から事情を説明しようとしたが、足立はすかさず「この人痴漢です!」と彼を指さしながら叫んだ。
「……なんと」
周囲から人が集まることを恐れたのか、男は咄嗟にその場から去って行った。
「大丈夫ですか?」
美しい顔の男は遠慮気味に近寄ると、足立を見つめ始めた。
「は、はい……」
そんなに見つめられると、心臓が爆発しそうである。
「よければ、家まで送りましょうか?」
足立のあまりの同様ぶりに男は心配になって尋ねたが、「い、いえっ、もう大丈夫です! こ、このマンションなんで。えへへ」しどろもどろになって答えた彼女は、慌ててマンションを指差した。
足立は男に見送られながら、ゆっくりとマンションの入口を目指した。エントランスにたどり着き、ふと後ろを振り返ると、男の姿はいつの間にか見えなくなっていた。
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