第28話 「それじゃ間に合わない!」Bパート
美術部の生徒をすべて見送ると、石田は教室の戸締りをし、職員室に向かった。予定より少し遅れている。……急いで帰らなければ。
職員室に来ると、中には誰もいなかった。それほど遅くなった覚えもないのだが。鍵をフックに掛け、入口を潜ろうとしたところへ突然人が駆けてきた。間一髪のところで相手は立ち止まり、「ごめんなさい!」と叫んだ。
「……いえ」
目の前に立っていたのは、ジャージ姿をした遠藤だった。
「あ、石田先生。職員室ってだれか残ってますか?」
「僕たち、ですね」
「あぁ……」と、遠藤はため息を漏らす。
「どうかしましたか?」
「…………」
彼女はよほど慌てているように見える。この時間は女子バレー部の練習を見ているはずだが。
「石田先生は――」と、彼女は少し間を置き、「これからお帰りですか?」
「はい」
「できたら、今日だけバレー部の面倒を見てもらうことはできませんか?」
「はい?」
「さっき怪我をしてしまった子がいるんです。私はその子を病院に連れていかなければならなくて……。本当はこのまま今日の練習を終わらせてしまった方が良いんですが、春の大会も近いので体育館の使える日はなるべく練習させてあげたいんです」
運動部の多いこの学校で、バレー部が体育館を使える日は週に二回しかない。
「帰りに戸締りの確認をしてくれるだけでいいんです! お願いできませんか?」
石田はしばし黙り込み、腕を組んで考え込んでいたが、「練習が終わるのは何時頃でしょうか?」と尋ねた。
「基本的には夜の七時です。居残りを希望する子もたまにいるので、その時は八時くらいになったりします。私も戻れるようでしたらなるべく早く――」
「それじゃ間に合わない!」
突然声を荒げた石田は、凍りついた表情を浮かべた。
「え? 間に合わない?」
「あっ、その、実は、……用事があるんです」
「…………」
石田の様子が普段と違うことが、近頃よく接している遠藤にはすぐに分かった。
温厚な彼はいつも柔らかな雰囲気に包まれており、感情をなかなか表に出さないが、根は優しい人だ。今回もしぶしぶながら引き受けてくれるのではないかと彼女は内心で期待していた。あっさり断られたことよりも、彼がほんの少しだけ垣間見せた秘め事の影が、遠藤の心を妙にざわつかせた。
「そうですよね。すみません、無理なお願いをしてしまって」
「いえ。こちらこそお役に立てず……」
申し訳なさそうな表情を浮かべる石田は、すでに温厚な青年に戻っていたが、素早く頭を下げた遠藤は逃げるようにその場を去った。
日が暮れる前に自宅のマンションにたどり着いた石田は、ポストから素早く郵便物を取り出し、エレベーターで四階に上がった。
廊下に出ると、斜め向かいの扉(石田の隣室の扉である)の前にぽつんと佇む人影があった。時おりランニング姿を見かける背の高い男だ。今日は肌触りの良さそうなブルーのロングカーディガンを身に纏っている。
来客と呼ぶには、男の挙動はあまりにも怪しかった。
呼び鈴を鳴らす気配もなく、ぴったりと身を寄せながら片方の耳を扉につけ、まるで室内の様子を伺っているようである。しばらく黙って見ていたが、このまま後ろを通り過ぎるのはどこか気が引けた。
「こんばんは」
石田は今しがた通りがかったところを装い、男に向けて挨拶をした。男は驚いたように肩を硬直させ、振り向いて石田の顔を見つめる。
「あんた、ここの人?」
「いえ。そこは僕の部屋ではありませんが」
「そうか。じゃあ、あっちだな」と、男は石田の部屋の扉を指差した。
石田はそれに答えず、「何をしていたんでしょうか?」と尋ねた。
「いや、別に……」
男は目を逸らしたが、すぐに彼の方へ向き直り、「ここの人、最近越してきたんだよな?」と尋ねた。
歩み寄る男の顔は、まるで西洋人のように鼻筋が通っていた。質問に質問で返してくるとは。
「さぁ」と石田は素っ気なく答えた。
「会ったことあるか?」
圧力のある目つきで、男は続けざまに問いかけた。
「……いえ」
男は下を向き、黙り込んだ。よくよく眺めると、潤んだ瞳は子犬のような愛らしさを感じさせる。
一体この男は、隣人にとってどのような関係なのだろうか?
「あ、あんたは――」と男は何か言いかけたが、迷った末に口を閉ざし、腕組みをして鼻息を大きく鳴らした。そのまま質問の続きも挨拶もなしに、そそくさとエレベーターに乗って行ってしまった。
「…………」
細かい詮索はしない。それが上手に暮らす術だ。
石田は男の乗ったエレベーターが一階まで降りるのを見送ってから、自室に向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます