第27話 「それじゃ間に合わない!」Aパート

 雨が降る。太陽は泣いているのか?


 石田がエレベーターに乗ると、以前どこかで嗅いだことのある匂いが薄らと漂ってきた。どこで嗅いだのか、全く思い出せない。薔薇の香りだろうか?


 一階に到着し、扉が開くと傘を差してエントランスを出る二人の姿があった。赤い傘と黒い傘。まるで並んで歩くランドセルの後ろ姿である。


 半透明のビニール傘を開き、石田は二人の後ろを歩いた。昨夜と同様のしとしと雨は、時おり風に煽られると正面から身体に向かって水滴が降りかかる。自然の力によって洗い流されるようなこの感覚は、一種の清めであるようにも感じられた。


 前方を歩く二人は、女性の声がとてつもなく大きい。会話がすべて筒抜けだった。


「大丈夫ですか?」グレーのスーツを着た女は、心配そうな声で男にそう尋ねている。


「はい……。何だか頭が重くて」


 マンションの敷地を抜けたが、二人は石田と同じ方角に進んでいく。


「そうそう! 昨日の夜のアレ、見ました?」と、女は唐突に話題を変えた。


「アレ? 何のことですか?」


「マンションの前で光ってたやつですよ! 見てないんですか?」


「あぁ」と男は頷くような仕草をした後、「それなら僕も見ました」と答えた。


「何だったんでしょうね?」


「形状としては、H・G・ウェルズの<宇宙戦争>に登場する宇宙船にそっくりでしたね。あれほど足は長くなかった気がしますけど」


「宇宙船! またSFの話ですか?」と女は大声で笑っている。「でも、そう言われてみれば確かに未知の物体って感じは出てましたよね。だって、一瞬で消えちゃったんだもん!」


「その後、マンションの中に誰かが入って行きました」


「そうそう!」と女は声を上げ、「もしかして、うちのマンションに宇宙人が住んでたりしてぇ!」と笑いながら話している。


 そこまで話したところで二人は右折し、住宅地の中を進んでいった。


 まさか、あれを見た者が他にもいたとは……。


「面倒なことは、ごめんだ」


 一人静かに呟きながら、石田は駅に向かう大通りを真っ直ぐに歩き進んだ。



 平凡な授業風景は、すっかり定着し始めてきた。


 授業の際には、絵に関心のない生徒にも丁寧に指導しなければならない。それは少なからず苦労を伴う行為であるものの、新たに興味を持ち始める生徒が一人でも現れてくれれば、それだけで報われる。


 放課後は美術部に顔を出した。


 女性陣は大きめのひそひそ話を繰り広げながら、不真面目な態度で美しい絵画を着々と仕上げていく。絵画は心の鏡と言われることもある。心は綺麗なのだろう。他人に同調しようという意識が、個人の品を損ねているのだ。


 女子生徒の中で最も背の低い子は、油絵で県の優秀賞を獲得しており、花をモチーフにした絵画を得意としている。残りの二人も水彩画、彫刻といった分野でなかなかの作品を生み出していた。


 この調子で行けば、彼らも教師などにはならずに生きていけるかもしれない。すべては運次第と言えるが。


 男子生徒は分厚い図鑑を開き、熱心に読み耽っていた。背表紙には『摩訶不思議な世界の生き物たち』と書かれている。美術室の本棚で埃を被っている図鑑の中の一つである。ユニコーン、ケルベロスなど、架空の世界の生物が多数描かれており、哲学的な絵画を好む者にとっては興味深い本であろう。


 ブラスバンド部が演奏する金管楽器の音色が、校舎全体に響き渡った。運動場ではトラックを周る陸上部や野球部の姿が目に入る。この演奏がほどよい背景音楽を担っているのだろうか。


 彼らのように進むべき希望が持てることは、幸福なことである。

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