第24話 「重度の花粉症なの」Bパート
脂っこい料理に比べ、酒の品質は悪くない。舌触りもよく、後味も良かった。そんな風に時間を過ごしていると、やがてお役目を終えた遠藤が元の席に戻ってきた。
「ごめんね」と言い、彼女は再び隣に腰掛ける。
「……いえ」
「さっき、何か言いかけてなかった?」
「そうでしたか?」石田は新しいお手拭きをさりげなく遠藤の方に差し出し、「きっと大したことではないと思います」と言った。
「そう?」遠藤の視線が石田の手元へ移動すると、「ありがとうね」と彼女は小声で呟いていた。
「僕の知り合いは、弾けるんです」
「え?」
「さっき、話していた曲です」
「あぁ……」遠藤はゆっくりと頷く。「そうかぁ。自分で弾けたら、きっと素敵でしょうね」
そこで唐突に、斜め前方から歓声が上がった。カエルの合唱を終えた教師陣が一気飲みを始めている。こぼれたビールはテーブルの上に小さな災害をもたらしていたが、気に病むものは一人もいない。
腹が立つ。とは、また少し違う。
「私も、あんまりいい気持ちはしないかな」と、遠藤は耳元で囁いた。
……テレパシー。
「私ね、下の名前は”ハル”っていうんだけど」
「知ってます」
「あら、覚えててくれたの?」と、彼女は少々淫らな表情をしてみせる。
「……一応、担任ですから」
と、彼は少し顔を背けた。
「私ね、春って季節があんまり好きじゃないの。名前と矛盾しているようで、何だか心苦しいんだけど」
「どうしてですか?」
春の柔らかな陽光、桜の花びらの舞う可憐な様子、適度に冷ややかで、かつ暖かな気候。それらは彼女の印象と上手く調和するように彼には思えた。
「とてもつまらない理由よ」彼女はひと呼吸おき、「私ね、重度の花粉症なの」
「……花粉症」
「そう」と、新しいお手拭きでグラスを拭きながら遠藤は答えた。
「桜の満開時期が一番ひどくてね、今も鼻炎薬で押さえつけてるんだけど、薬の副作用でとっても眠いし、怠いし、熱っぽいし。でも飲まないと、もっと悲惨な目に遭うから」
微笑みながらテーブルに頬杖をつき、彼女は続けた。
「他には、風が強いのも嫌い。屋内から見るとあんなに素敵なのに、いざ懐に飛び込むと居心地がとっても悪いの。まるで外見だけ取り繕った性悪女みたいじゃない?」
石田は想像力を働かせるが、そういう女性を上手く思い描くことができなかった。
「花粉症については分かりませんが――」石田は猪口に酒を継ぎ足しつつ、「嫌いになるには十分に条件が整っていると感じます」と言った。
自身の名前が男らしくなくて好きではないと、石田は常々思っていたので、彼女の話にすんなり共感できたのかもしれない。
「そうでしょ!」と、彼女は一瞬高ぶり、「でもね、それってきっと全部自分の捉え方次第だと思うの」と言った。
「春の全部が嫌いってわけじゃない。好きなところもたくさんあるの。例えば――」
彼女は教壇に立つ際のように、人差し指を立てる。
「さっきも言ったけど、屋内から眺める春の景色はとても素敵。素直に綺麗だなぁって思える。下ろしたての制服に身を包んだ初々しい新入生たちや、慣れない様子で道端を歩く子供たち。そういうのって、何だか心が穏やかな気持ちになるの。そんな風に思えるようになったのも、つい最近のことだけどね」
石田は彼女の言わんとすることを咀嚼し、応える。
「ある一面のみで物事を理解したつもりになるのは、良くないと?」
遠藤は彼の猪口を掴み、「つまりね、こういうこと」と答えると、中に入った液体を一気に飲み干した。
「……よく分からないな」
石田は戸惑いながらも、率直に気持ちを述べた。すると彼女はまとめて置いてある未使用の猪口の中から一つ手に取り、「自分のテリトリーで過ごすのはとっても居心地が良いけれど、たまには別の世界に触れてみるのも悪くないってこと」と答えると、石田の猪口と自分のものに酒を継ぎ足した。
「すべてを受け入れる必要はないの。でもね、毎日のように続く拷問という訳でもない。過ぎ去っていく時間の、ほんの一瞬のことだと思ってしまえば、案外掘り出し物が見つかったりするものだから」
遠藤は猪口を手に取り、すでに彼女の代名詞とも呼べそうな悪戯っぽい表情を浮かべながら、石田を見つめている。
「…………」
魅惑的で眠たげな瞳に映る石田の姿は、やがてもう一つの猪口に向けて手を伸ばし始めていた。
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