第23話 「重度の花粉症なの」Aパート

 桜には、もう飽きた。


 パノラマのように流れる屋形船からの眺めに、石田はふとそう思った。


 都会のビル群を背景に堂々たる姿で咲き誇る、桜並木。水面に浮かぶ花々はネオンの輝きによって昼間とはまた一味違った趣を見せ、一枚の絵画と表現しても良いほどに贅沢なものだったが、それらをじっくり味わおうという姿勢を示すものは、彼の周りには誰ひとりとして見当たらない。


「何か言いましたか?」


 石田の隣に座る遠藤は、彼の心情を気配で感じ取ったようだ。テレパシーを使えるのかもしれない。


「……いえ」


 今夜は教師陣による花見大会と称した屋形船での飲み会が催されている。どうにか都合をつけ、今まではうまく避け続けてきたが、今回は上手くいかなかった。


「私も苦手です。こういうの」


 彼女は苦笑いを浮かべている。またも、テレパシーだろうか。


「…………」


 苦手と言った覚えはありません。


 石田は再び心の中で言葉を紡いだが、どうやら今回は伝わらなかったようだ。遠藤は反対側の偉そうな男(教頭)にお酌中だった。


 その日、石田は放課後になると遠藤の資料作りを手伝っていた。覚えの早い彼女は教えたことをすぐさま吸収していく。彼はなるべく丁寧に、できるだけ多くのことを教えた。


 気がつくと、日が傾き始めていた。


 終わりの目処も立ち、そろそろ引き上げようかと石田は席を立った。夕方には自宅に着いていたかったからだ。けれど間の悪いことに、その時ちょうど幹事の教員から飲み会の招集がかかった。


 うっかりしていた。今夜がその日であると、頭からすっぽり抜け落ちていたのだ。思い出していればもっと早く切り上げていたのに。


 帰宅後に予定がないことは会話の最中ですでに彼女に通知してしまっていたし、できれば居てくれた方が助かると彼女に耳打ちされたこともあり、石田は不本意にも船に揺られ、こうして夜桜を相手に一人で酒を煽っている次第だった。


 石田は、飲み会というものに価値を見い出せなかった。


 関係の希薄な他人と交流を深めるための社交の場として、飲み会はよく催される。そこにアルコールがあるのは一種の潤滑油のようなものだろうか。適度な摂取はある種の高揚を与えてくれる。しかしながら、あれは人間の本性を剥き出しにする麻薬なのだ。


 酒に酔った者は意識を保っていられず、所構わず地べたに這いつくばる。また自己顕示欲の抑制が効かない者は、声量も気にせずわめき散らす。意味もなく泣き始める者、笑い転げる者、暴れまわる者など、動物的本能が剥き出しになり、理性を保っていた前半の健闘も虚しく、もはや児童保育園の光景となんら変わりがない。叱りつける大人が存在しない分、余計に厄介な代物であろう。


 その光景は彼の心に大きな闇を落とし、それに加え、ひどく傷つくものだ。


 普段は雲行きが怪しくなる前に、気づかれぬよう姿を消すことにしていた。けれど今日はそれもできない。彼が腰掛けているのは、絶海の孤島。心の平穏を保つために彼ができることは、眼前のフォーカスをぼかしながら背景である桜に焦点を合わすことだけである。


「お酒、強いんですね」


 お酌と社交辞令を終えた遠藤は、石田に向き直るとそう呟いた。


「嫌いではないです」石田は日本酒の入った猪口を右手に持ちながら、「遠藤先生は、あまり得意ではありませんか?」


 彼女の目の前には、すっかり氷が溶け、薄まったレモンチューハイのグラスが置かれていた。


「強くはないですね」彼女はグラスの縁に指を触れ、「だから弱いやつをゆっくり飲んでる感じ。途中から中身が水みたいになってきちゃうけど、それくらいがちょうど良いかも」と答えた。


「でもね、グラスの結露けつろでお手拭きがすぐ湿っちゃうの」


 遠慮がちに微笑んだ彼女は、テーブルの上の空いた皿をまとめながら、「料理は食べてますか?」と尋ねた後、一段声を落とし、「そのくらいしか、楽しみはないしね」と小声で言った。


「はい。味はそれほどですが」


「あら、厳しいのね」


 彼女は刺身に箸を伸ばしつつ、「確かに。言われてみればそうかも。所詮お酒が入っちゃえば、みんな大して気にしないもん」とくすくす笑った。


 喧騒は、一層激しさを増していく。それにつれて、彼女の緊張の糸は徐々に解れていった。


「普段は自炊するの?」


「一応……」


「恋人が作ってくれたりはしないのかな?」


 遠藤は石田の猪口に日本酒を継ぎ足しながら、冗談っぽく問いかけたが、


「……いないですよ」


 と、石田はふと影を落とした。


「そう……」


 日本酒を注ぎ終えた遠藤は、身振りで新しいものをもう一本注文しつつ、「私は最近、すっかり自炊してないかなぁ。忙しいとついサボっちゃう」


 斜め向かいの席では、早見先生が英語のレッスンを始めていた。男性教員があとを追い、カエルの合唱のように次々と英単語を発音している。


「家では、普段何をして過ごすの?」


「たまに絵を描いたり。あとは、……音楽を聴いたり」


 最近はジャズをよく聴くことを話すと、遠藤は閃いたように、「じゃあ、あれ知ってる? ワルツ・フォー・デビイ」と尋ねながら指先でテーブルに触れ、滑らかな舞いを見せた。


「ビル・エヴァンスですね。好きなんですか?」


「うーん。好きっていうより、知ってるって程度かしら」彼女は静かな表情で屋外の桜を見つめ、「綺麗な音よね」


 その姿はどこか、遠い記憶に思いを馳せているようだった。


「私の知り合いに――」と彼女は言いかけ、


 少し、間が空く。


「…………」


「あぁ、ごめんなさい。私の知り合いにね、あなたに似た雰囲気の人がいたのよ」


「ずいぶんと暗い方ですね」


「あはは。確かに人前では内向的な面があったけど」と、遠藤はすっかり薄まったチューハイを一口含み、「何て言えば良いのかな。考えが分からなくて、表情が乏しくて、素っ気なくて、でもきっと、心の奥では優しい人」


「その人の方がずっと、味がありそうです」


「味かぁ。そうかもね。無愛想な時が一番の自然体って感じの人だったけど。もう随分と顔も見てないかな」


 遠藤は置き去りにした記憶を手繰たぐるような、色味のない表情を浮かべた。


「その人が――」と石田が言いかけたところで、遠藤にお呼びが掛かった。彼女は席を立ち、彼から遠ざかる。

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