第16話 「わりと汗かきなんです」Bパート
液晶には星々の浮かぶ宇宙空間に羽衣のような紫の光がたなびいている。アイコンも最小限。真新しいボディから、まだ購入して間もないことが伺えた。
「大学生の頃にインターンで触ったことはあるんですけど、それ以来ずっと避けてきたんですよね」
「使わなくても、日常生活に不便はありませんから」
キーボードの左下にシールが貼ってある。……白い馬? 額に長い角がある。ユニコーンだろうか。
「あっ。これ、私じゃないんですよ? 姉がふざけて勝手に……」
石田の視線に気づいた遠藤は、咄嗟に言い訳をした。
彼女はフォルダの中から、一つのエクセルファイルを開いた。表示されたシートには、クラスの行事スケジュールや数字の羅列などがぎっしりと記入されている。
「こことここの合計をこっちのシートに出したいんですけど」
遠藤は別のタブをクリック、シートを切り替えた。「シートが変わると、どうしたら良いのかがよく分からなくて……」
「分かりました。やってみます」
石田は遠藤と席を変わり、数式を確認する。
「どうですか?」遠藤は後ろにまわり、肩ごしに尋ねた。
オリエンテーション前に着替えたシャツからは、仄かに柔軟剤が香っている。
「恐らく、これで良いかと」
試しに数字をいくつか入力する。計算に問題はないようだ。
「わっ、すごい」彼女は石田の肩に触れ、「ありがとう! 助かりました」
「……いえ」と俯きながら、石田は入力されたデータを眺め、「これは、全て遠藤先生が作ったのでしょうか?」と尋ねた。
「えっ? そうですけど……。何か問題ありそう?」
後方から、彼女は不安げに呟く。
「いえ。そうではなくて。とても、骨の折れる作業だったのではと」
「あぁ。そういうことか」今度は安堵の声が、指先から体内へと流れ込む。
「丁寧な仕事です」石田は小さく一度咳払いをしつつ、「他に、分からないことはありますか?」
「……今のところは」
自身の頭部に触れながら、遠藤の表情はどこかすっきりと晴れない。
「良ければ――」石田は液晶をじっと見つめ、「データをもう少し見やすいように調整しましょうか」
「え、そんなの出来るんですか?」
「後々、紙媒体へのプリントアウトを考えて調整する程度ですが」
「はい! 助かります」
その表情は、曇天の雲間から
静かだ……。
周囲を眺めると、他の教員はすでに持ち場へと移動したようだった。普段はいの一番に抜け出す石田にとって、静まり返った職員室というのは新鮮な心地だった。
習慣で石田はポケットからリップクリームを取り出し、乾いた口元を潤した。すると遠藤は「あ、それ…」と彼の手元を指差した。
「何か?」と石田が尋ねると、「私も同じものを使っているから。つい」と言い、彼女は柔らかく微笑んだ。
周囲の視線がないからだろうか。今の彼女は、幾分か伸びやかに見えた。
「石田先生は、身の回りに気を使っていますよね。服はいつも綺麗にアイロンされているし。今朝の絆創膏といい、ポーチの中からは何でも出てきそう」と言いながら、彼女はくすくす笑った。
「何でもは出せませんよ……」彼は苦笑いを浮かべつつ、「なるべく、必要なものは持ち歩くようにしています」と答えた。
「例えば?」
隣の席に腰掛けた遠藤は、顔を近づけながら興味ありげな表情で石田を見つめている。
……近い。肌が綺麗で、爽やかな人だな。安易な色気を振り撒く英語の早見先生などとは違い、常に清潔感を感じさせる。
「例えば――」石田は天井を仰ぎ、「頭痛薬や胃腸薬は入っています」と答えた。「念のため、携帯電話の充電ケーブルと、それに、汗ふきシート。それくらいです」
「あなたも汗をかいたりするの?」と、遠藤は悪戯っぽい表情で尋ねた。
「……わりと汗かきなんです」
「そうなの? ちょっと意外かも」
彼女は机の上に頬杖をつき、「あなたが誰かと会話するところをあまり見たことがなかったけれど、案外話しやすい人なのね」
「そうですか?」
腑に落ちない表情でも、浮かべていただろうか。
「不満?」と、遠藤は彼の顔をさらに覗き込む。
「……いえ」さすがに彼は、目を逸らしてしまった。「今まで、そんな風に言われたことがなかったもので」
「私って、ズレてるから。昔から周りには変な人ばっかりだし。あ、君が変な人だとは言ってないわよ」
君……。
「他人が認識する自分の姿なんて、所詮は虚像なの。あなたがこれまで周囲からどう扱われてきたのかは分からないけれど、私にとっては話しやすい人よ。だから、そんなに小難しく考える必要はないんじゃない?」
「そうかも、しれないですね」
「それじゃ先生。引き続きご指導をお願いします!」
そう言うと彼女は、パソコンの液晶が見やすいよう、すぐ隣へと椅子を移動させた。
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