第15話 「わりと汗かきなんです」Aパート

 遠回りが好き。寄り道は、もっと好きである。


 通学路は通らない。小川に沿った道を歩くと、静かに流れる水面に桜の花びらが浮かんでいる。校内に咲いた薄紅色に比べ、こちらは白に近い。遠目に見ると、まるでポップコーンが並んでいるようである。


 今朝は電車を一本乗り過ごしてしまったが、時間にはまだ余裕がある。階段でふらついていた彼女は、無事に目的地へとたどり着けただろうか。


 薔薇の香りがした、あの人。


 平常授業はまだ始まらない。学年も変わり、新しく配置されたクラスのオリエンテーションが本日は行われる。担当のクラスを受け持つ教師はホームルームのため教室へと赴き、自己紹介や委員会決めなどで忙しくするのだろうが、それも石田には関わりがない。


 朝に行われる体育館での全体オリエンテーションが終われば、その後は美術室に篭っているつもりである。放課後の部活は、参加希望があれば行う。美術部は出席率が高いゆえ、今日も恐らく誰かは教室にやって来るだろう。


 特別な催しごとより、むしろ、判で押したような日常が愛おしい。一定の速度で流れる水の音を聴きながら、そんな風に思った。


 校門の前に来ると、二人の教員が立っており、生徒に向かい朝の挨拶を送っている。ハーフパンツにタンクトップという真夏のような姿で剛健さを放つ男は、体育教師の中村である。筋肉質で小麦色の肌を覗かせている。


 隣には遠藤の姿があった。彼女はバレー部の顧問を請け負っている。朝練を見てきたのか、ジャージ姿であった。だぶつきのある服装は、かえって彼女の華奢な身体を強調して見せた。


「おはようございます! 石田先生!」


 満面の笑みで挨拶を寄こす中村は、素直で清々しい男である。けれど、雄叫びのような声には、反射的に身が竦んでしまう。


「ぉはょぅ……、ございます」


 石田はか細い声で答え、そのまま通り抜けようとしたが、今度は遠藤が挨拶を寄越した。


「おはようございます、石田先生。今日からよろしくお願いしますね」


「…………」


 個人的な約束は、あまりしない主義だ。請け負っている係でもあっただろうか?


 戸惑う石田の様子を察した遠藤は、遠慮がちに微笑みながら、「深い意味はないんです。今年から初めてクラス担任になったので、副担任である石田先生に改めてご挨拶をしただけですよ」と言った。


「そうですか」


 こんな時も、適切な言葉は浮かばない。口惜しいことである。


 そのまま立ち去ろうと思ったが、目線を下ろした先にある遠藤の手の甲を見た石田は、おもむろに彼女の手首をそっと持ち上げた。


「手を――」


「えっ?」


 動揺する遠藤をよそに、石田は彼女の手の甲を見つめながら「手を、怪我しています」と述べると、鞄の中にある手のひら大のポーチから絆創膏を取り出した。


「あぁ、本当ですね。朝練見てる時にどっかで擦りむいたのかな」


 彼女は笑顔を見せ、「でも、このくらい平気ですよ」と言ったが、石田はそれには応えず、絆創膏を彼女の手に貼った。


「失礼しました」


 小さく呟くと、石田は足早に校内へと歩き去った。


 体育館での気づまりな催しごとを終えると、教師陣は片付けをした後で一度職員室に集まり、職員会議を行った。そこでは学年ごとの連絡事項や報告のある者が発言をした。

 

 それもようやく終わり、石田はいそいそと美術室へ退散しようと考えたが、隣の席の遠藤が声をかけてきた。


「石田先生。ちょっといいですか?」


「何でしょう?」


 遠藤は石田に手の甲を向けながら、「あ、さっきはこれ、ありがとうございました」と微笑みながら言った。


「……いえ」


 見ると遠藤は、頭を指で掻きながら少し言いづらそうな表情を浮かべていた。これは彼女が困った際の合図である。半年の間、何度かその姿を見てきた。


「こういうやつ、もし得意でしたら教えていただきたいんですけど……」


 遠藤は伏し目がちにノートパソコンを取り出した。シルバーのボディには、右側面をかじったような林檎のイラストが描かれている。


「私、こういうのって本当に苦手で……。若い人って大体得意でしょ?」


 見回すと、確かに若者と呼べる者は石田以外には見当たらない。


「専門ではありませんが、僕で分かることでしたら」


「本当ですか? ありがとうございます!」と言うと、遠藤は早速パソコンを起動し始めた。

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