第14話 「イタリア紳士のようじゃないか」Bパート

「早かったじゃないか」男は前野の向かいの椅子を引いて腰掛け、「俺に会うのが、そんなに待ち遠しかったか?」と、にやけ面のまま問いかけた。


「気持ちの悪いことを言うな。俺はいつも、待ち合わせの十分前には到着するように計算して動いているだけだ」


「そんな生活、苦しくないか?」


 男は手をあげてウェイトレスを呼んだ。


「お呼びでしょうか?」


 ウェイトレスが来ると、男は気取った様子で人差し指を立て、少し待つように促しながらメニューを広げ始めた。前野は少々イラついた表情をしながら、「進歩のない男だ」と相手に聞こえるように呟いた。


「何がさ?」男はそれに応えるものの、視線はメニュー表に釘付けである。


「決めてから呼べ」


「ふふん」男は歪曲した口元で前野に視線を遣り、「だって、決めたらすぐに注文したいじゃないか」と言った。


 何と自分本位の奴だろうか。待たされるウェイトレスは、お前の専属ではないのだ。


「俺はお前と違ってメニューを決めるのにも大して時間がかからないだよ。――えぇと、それじゃあココアとチョコレートパフェをお願いね」


 そう言ってメニューをウェイトレスに手渡し、「ほらねっ。そんなにかからなかっただろ?」と男は肩を竦めた。


「時間の問題じゃない。俺ならよりスマートに注文が進むよう、前もって注文するものを――」


「しっ!」


 男は前野の言葉を遮るように片手を突然前に出すと、そのまま目線を逸らし、歩き去るウェイトレスの後ろ姿(主にひらひらと揺れるミニスカートの太腿辺り)を眺めた。釣られて前野も、そちらへ視線を遣る。スカートと連動するようにして、ポニーテールの毛先が左右に揺れていた。


 足元には薄汚れた油まみれのスニーカーか。せめてもう少し綺麗な靴を履かせるべきではないのか。食欲が失せる。


「なぁ、松田よ」男に視線を戻した前野は、「俺にはどうでもいいことだが、ココアにチョコレートパフェとは、どうにも甘ったる過ぎやしないか?」と言った。


 想像するだけでも、胸焼けを起こしそうである。松田はいつもそうだ。自身を個性の塊のように思っていやがるが、そんなものは大したものではない。先ほどのビジネスマンの方がよっぽど面白い奴だった。


「いいんだよ。なんせ俺は、超がつく甘党なんだから」


 松田という男は、ウェイトレスが歩き去った余韻を味わいつつ、「キャラメルマキアートにするか悩んだくらいさ」と言った。「――いや、待てよ。そうなるとパフェもキャラメルに統一したいよな。ふふっ」


 悪巧みをするような表情で一人笑う松田を見て、前野はため息を漏らした。


「いくら甘党といえど、少しはバランスを考えてだな。例えば飲み物はもっと糖分を抑えた柑橘系のすっきりとした――」


「あぁ、はいはい」


 わざとらしく何度も頷いた松田は、前野を指差した。


「お前ってほんと細かいよな。マイルールを重んじるのは結構だけど、それって一種の押し付けだぜ? それは良くないよ。もっと個人の自由を尊重しないとさ。そんなだから、お前は眉間に皺の寄った顔がデフォになるんだよ」


 まったく。口の減らない奴だ。


 松田は胸ポケットから細長いメンソールの煙草を取り出して火をつけた。ぎらついたデザインのジッポライターが太陽光を反射させ、ビーム光線のように目元の辺りを攻撃してくる。


「お前の減らず口はどこまで進歩するんだろうな」


 前野は松田がテーブルに置いたジッポライターを手に取り、何度か火をつけたり消したりしながら、「話していると、こっちが馬鹿馬鹿しくなる」


 ずっしりと重いな。素材は何だ?


「まぁ、そう言うなよ」松田は足を組んで少し前かがみになり、「俺とお前の仲じゃないか。最近調子はどうだ? 上手くやってるか?」と尋ねた。


「いくつか案件は抱えている。特に問題もない」


「ふうん。そうかい」男は口元から薄い煙を吐き出した。「実はな、うちのボスの繋がりで、今度大きい案件がもらえそうなんだ。お前の名前を候補に挙げておいたからな。もちろん口外は無用だ」


 松田はいつの間にか、声のトーンを少し落としていた。今ではささやき声に等しい。


「俺は今そんなに暇じゃないぞ! 手抜きをするつもりもない」


 声を荒らげる前野に怯む様子もなく、テーブルの上にあるグラニュー糖のカップを手に取った松田は、ティースプーンで下から掬っては戻し、掬っては戻しと、それらがさらさらと流れる様子を眺めた。


「まぁまぁ、答えを急ぐなよ。まだ少し先の話さ、考えといてくれ」


 松田はついには、水の入ったコップの中にグラニュー糖を入れ始めた。


「お前が仕事に対して慎重な男なのは、誰よりも理解しているつもりさ。腕も見込んでる。だがな、こいつは俺の手札の中じゃ、とっておきのうちの一つなんだぜ? 大事に頼むよ」


「お前のとっておきはいくつ存在するんだ?」目の前で砂糖水を優雅に飲む男の姿に前野は顔をしかめながら、「事を大袈裟に表現するのは、お前の良くない癖だ」


「今回はマジさ。だからボスにも一番にお前の名前を挙げた。俺の采配に、少しは感謝してもらいたいもんだよ。とにかく今の仕事が片付いたらすぐに教えてくれ」


「まぁ、気が向いたらな」


 前野は男の重たいジッポライターで自身の煙草に火をつけながら、まんざらでもない表情を浮かべた。……火力が強すぎる。


 松田が注文した飲み物とパフェが運ばれてきた。奴はポケットからスマートフォンを取り出すと、あらゆる角度から何枚も写真を撮った。どうせSNSにでも投稿するためだろう。あんなものはくだらない連中が自身の生活の(見せかけの)有意義さを、ただひけらかすために利用しているだけだ。


「松田よ、アイスが溶けるぞ。まったく。いい歳してよくやる」


「おいおい、俺たちまだ三十四だぜ? あ、お前は三十五歳になったんだっけか? 早生まれは損だなぁ」


 けらけらと笑いながら写真を撮り終えた松田は、写真加工アプリで素早く色合いを整え始めた。


「今時は一般人のばあさんでも、手のひらサイズの端末でサイバーテロを起こせる時代なんだからさぁ。アナログ派か何だか知らないけど、ちっとは自分が遅れてるっていう自覚を持った方がいいぜ?」


 ようやくSNSの投稿が完了したようだ。丸みを帯びたアイスはすでに萎んだ風船のように崩れ、テーブルの上に滴っている。


「それにお前、そのシャツの柄はなんだよ、珈琲豆?」


 ようやく細長いスプーンを右手に持った松田は、目を細めて前野のシャツを睨みつけ、「俺にしか会わないとは言え、この辺りは人目も多いんだから。もうちっと、華のある柄を選べよな」


「花柄にすれば華があるというのは、安直な考え方だ」と反論しながら、前野は松田のシャツを指差した。「お前の方こそ、趣味の悪い花柄なんか着やがって」


「珈琲豆にだけは言われたくないね」


「…………」


 前野は自身のシャツを指でつまみ、無言でしばらく眺めていた。


 ……そんなにひどいのか?


 前野はやがてどうでも良いといった風に左右に首を振ると、珈琲カップの取っ手を握って口に運んだが、中身はすでに空になっていた。思わず乱暴にカップをソーサーへと戻した彼は、今度は灰皿に置いた煙草を掴み、肺の中いっぱいに煙を吸い込んだ。


「とにかく、今のうちにやれることはやっておけよ。後で後悔しても遅いんだから」


 松田は甘ったるいココアを啜りながら、珍しく真剣な眼差しを向けた。


「……言われなくても分かってる」


 前野は空を見上げながら、輪っかになって宙に浮いた煙草の煙を眺めた。彼の口元から離れたそれは、すぐに灰色の高層ビルの風景へと同化していった。

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