第13話 「イタリア紳士のようじゃないか」Aパート
浴室の洗面台に向かい、鏡に映った自身の姿を前野は眺めていた。
今のところ、全身鏡の購入予定はない。普段の外出時すら、鏡を見ることなど滅多にないのだから。しかし今日は、友人との約束がある。定期的な安否確認のようなものであるし、男同士の間柄で服装に気を張る必要など一切ないのだと疑いの余地なく思いつつ、一度悩み始めるとなかなか決められなくなるのが前野という男だ。
室内には似たような柄のシャツが何枚も脱ぎ捨てられ、ジーンズとスラックスで悩んだ形跡も残されている。その中にひと組だけある派手な靴下は、どういう経緯で考慮の対象にのぼってきたのか、今では思い出せない。
ようやく、あとはジャケットさえ決まれば準備が整うところまで来ていた。
「ふん」
前野が選んだのは、実に前野らしい服装と言えるのかもしれない。
ゆったりとした黒のスラックスを履き、一見して黄ばみと見間違えそうなほどにくすんだオフホワイトの半袖シャツ(珈琲豆の柄が入っており、豆色はインディゴブルーである)を着ている。
仕上げに、焦げ茶色のテーラージャケットを羽織った。あまり気取った格好には思われたくないが、ラフ過ぎるのもまた気に入らない。
「なんだ、イタリア紳士のようじゃないか」
鏡に映った自身の姿をまじまじと見つめながら、そのように独りごちていたが、もちろん彼は未だかつてイタリア紳士なるものに出会ったことはないし、イタリアの大地にすら足を踏み入れたことがない。
それに傍から見れば、グアテマラ辺りで立派に育った珈琲豆の妖精のように捉えることもできるかも知れない、という懸念も少なからずあった。
短い廊下を小走りに駆け抜けて部屋に戻った前野は、脱ぎ散らかしたシャツやパンツを丁寧に畳み直し、すぐさまクローゼットの引き出しにしまった。模様替えをしたばかりのため、今はこまめに片付けをする時期なのである。
自室の鍵と赤いマールボロのボックスをジャケットのポケットに突っ込むと、窓を閉めて名残惜しそうに風鈴を一度指で弾いてから、前野は部屋を後にした。
マンションを出た前野は、駅に向かって歩き始めた。左右に揺れてふらふらと歩き進む老人どもが徘徊する寂れた商店街を進みながら、大して興味もないくせに目につくものをついつい観察してしまう。
こじんまりとした電気店のおやじは、開けっぴろげの店内で将棋盤に向かいながら今日も一人詰め将棋に勤しんでいた。休日になると近所のおやじ共がやって来て対局している場面も目にするが、大抵は本を見ながら一人で架空の相手と静かに差し合っている。
将棋仲間以外の客が来ているところなどついぞ見たことがないにも関わらず、おやじはいつも真っ白な白髪頭へ丁寧に櫛を通し、髪型をもっこりとしたオールバックに整えている。
スーパーに立ち寄った時にひょっこり遭遇した際も、服装は店にいる時と同様に小汚いウインドブレーカーを着ているくせに、髪型だけはしっかりとセットされていた。徒歩圏内でも自転車に乗って来るところはどうにも気に入らない。
誰に対しても無愛想な奴で、客商売にはおよそ不向きな男に思われたが、実を言うと前野はそんな彼のことがわりと気に入っていた。彼にはどこか、強いこだわりのようなものが感じられるからだ。
駅に着くと、東側の都心に向かう電車に乗った。平日の昼間ということで乗車率は著しく低いものの、時間と金を持て余した連中や、外回りのサラリーマンなどがちゃっかり席が埋め尽くしている。
中央のシートにはいくつか空席が見られたが、目的の駅まではそれほど遠くない。前野はつり革に掴まり、立つことにした。
前野の身長が高いせいか、はたまた顔の造形がギリシャ人のようなせいか、あるいはその両方が原因なのかは不明だったが、彼の姿を目の当たりにした人々は必ずと言って良いほど綺麗に二度見をした。たとえ本物のギリシャ人が目の前に現れたとして、これほどの二度見をするだろうか?
周囲の反応にもすっかり慣れてしまった前野は、気にすることなく車内の中ほどに立っていたが、発車からまもなくして、目の前に座った中年男性からひどく臭気が漂うことに気がついた。
仕立ての良さげなスーツを着込んだやせ型の男は、一見して良識的な人間に思えた。しかしながら、どう考えてもこの男の方向から、ひどいアルコール臭が漂っている。
昼間っから、接待にでも行ったか? だが、頬は赤くない。いいや、酔っても顔色の変わらない人間など、ごまんといるだろう。
見るかぎりでは、意識はしっかりしているようだ。その証拠に男は、縦長に折った英字新聞に目を通している。表情に虚ろな様子はこれっぽっちも伺えず、至って自然体を装っているが、悪臭の発生源がこの男なのは間違いない。まるで
男の隣に座った脂肪たっぷりの中年女もまた臭いが気になる様子で、しかめっ面を浮かべながら時おりわざとらしく咳払いをしていた。それはアピールのつもりか?
奴は長く過酷な接待生活のなか、酒を飲んでも一切顔に出ないよう訓練を施されてきたか、はたまた本当に、アルコールフレーバーの香水が発売され始めたか。どちらにせよ、あまり気持ちの良いものじゃない。
そうこうするうちに、目的の駅が車内にアナウンスされた。前野が扉の付近に移動すると、他にも何人か同じ駅で降りるために立ち上がってやってくる者があった。男の隣に座っていた中年女は、向かいに空席を見つけるやいなや、脂肪を上下にバウンドさせながらすかさずそちらへ移動していた。
たった二メートルほどの移動で息は激しく荒れ、肩を揺らしながら大きく深呼吸をしている。ふふ、酸素マスクが必要なんじゃないのか?
女が移動する姿を、男は確実にその瞳で捉えていた。けれど男は動じることなく、すぐさま新聞の方へと視線を戻した。優秀なビジネスマンとはこういうものか。はたまた、ただのとてつもなく鈍感な野郎か。
何にしても、興味深い男だった。
駅を降りると、すぐ近くに待ち合わせのカフェがある。テラスの定位置に陣取り、注文した珈琲も手元に届き、二本ほど煙草を吸い終わったところで、ようやく遠くからでも識別可能なにやけ面の男が歩いてきた。
……相変わらず、気取った歩き方をする男だ。
雨上がりの野ねずみのように濡れたツーブロックの黒髪も、家畜を連想させる左耳のシルバーリングのピアスも、軽薄で切れ長の奇っ怪な目つきも、艶のある上下黒のフォーマルスーツも、中に着た派手な花柄のシャツも、すべて前野の趣味にはそぐわない。
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