第12話 「ご近所付き合いは慎重に」Bパート
五階に到着した。パズルは徐々に紐解かれていく。密室から出た途端、足立はさほど新鮮でもない空気をこれでもかというくらいに吸入した。
足立の所属する会社は、ビルの五階と六階の計2フロアを所有している。会社自体は法人向けにインターネットの入り組んだサービスを展開しているようだが、足立は事務職員なので、詳しい内容までは把握する必要がない。
――おっと、失礼。言い方がまずかった。たとえ内容を把握していなくても、十分に仕事はこなせるというだけの話だ。何より足立の仕事のクオリティが、それを証明している。
具体的には頼まれた資料のデータをパソコンで入力したり、時には電話対応をしたりする。他にもプリントアウトした書類をカッターで切り揃えたり、ホッチキスで留めたり、それを近くの郵便局へ届けたりと、さほど専門的な知識を必要としない作業ばかりだが、いくつかの細かい作業を並行して行う必要があるため、上手く時間配分を決めて効率化しないと就業時間内に終わらせることができない。
「おはようございまーす」
デスクにつくと、上司が用意したその日の簡易的な”ToDoリスト”がメールかメモ書きで次々に送られてくる。
メモなんかは汚ったない字でね。読めない方が悪いんだって。パワハラが流行ってんの。優先順位の高いものには数字が振ってあるけど、全て終わらせなければならないことに変わりはないから、あまり意味はないかな。
足立は早速作業に取り掛かった。ほかの人はどうか知らないが、足立は仕事を始めると雑談を一切しない。それだけではなく、休憩時間ですら極力言葉を発しないようにしている。一度話しだすと止まらないことは、自分でも分かっているから。
この会社では、事務職員の残業は原則として認められない。仮にその日中に終わりそうにない作業が残った場合は、就業時間が終わるまでに上司に進捗を報告し、時間指定付きの居残りを行うか、持ち帰って自宅で進めることになる。アルバイトのように時間が来たらその場で終了、という訳にはいかないのだ。
どのみち残業には給料が発生しないので(――またも失礼。みなし残業という名目で給料には含まれているのです。それも含めてやっと一人分の給料といったところではあるのだけれど……)、足立はいつも持ち帰る方を選ぶことにしている。
けれど、人一倍仕事の早い彼女にとって、その機会がやってきたことはほとんどない。郵便局へ行くのを忘れることは多々あるけれど。
足立のお隣でのんびりと朝の雑談を
仕事を頼みすぎなんじゃないかって? ……違うわよ。
彼女に与えている仕事は、足立の半分にも満たない。まだ入社して二年目の彼女にそんな大量の仕事は任せたりしない。そこまで鬼畜な会社ではないのだ。
足立は一度だけ、まったりと仕事を進める彼女の様子を見かね、「なにか手伝おうか?」と申し出たことがある。けれど彼女は、その申し出を丁重に断ると、自力でやりたいと答えたのだ。
その日は彼女の熱意に感動しつつ、定時で帰宅した足立だったが、ある日給湯室で聞いた噂話によると、残業した男性社員と彼女が楽しそうに夜の街へ消えていく姿が目撃されていたらしい。
もしかすると、仕事が遅いというのは単なるフェイクで、「他の女子社員が去った後で、男性社員に誘われる機会を伺っているのでは……?」という噂が、女性社員の間で囁かれていた時期がある。
正直言って、そんな回りくどい真似をせずともリナちゃんはすでに人気者だし、足立にとってはどちらでも良いことだった。だから今でも”お隣のリナちゃん”とは、付かず離れずといった関係性を上手く保っている。
昼休みに食事を済ますと、社員は順番に給湯室へ行って歯を磨いたり、食後の温かい飲み物を入れたりする。大抵の女子社員はそこで噂話に花を咲かせていた。足立もその例外ではない。
かと言って、彼女が口を開く機会はまずないのだが、参加しない訳にもいかない。
「部長って、最近痩せてちょっと格好良くなったと思いません?」
総務課の
「あの人、不倫してるって噂ですよね?」と経理の七瀬さんが応える。「最っ低!」
引き締まった身体に低音ボイスをしたこの女は、とにかく噂に惑わされやすい。
「でもぉ、ほんとかどうか分からないのに、そんな風に言っちゃ可愛そうですよ。奥さんのために、ダイエット成功させたのかもしれないじゃないですかぁ」
それに対して口を挟んだのは、リナちゃんである。訴えるような仕草もまた可愛らしい。
「眼鏡をかけた方が似合うと思うんですよねっ」
鼻息を鳴らし、小向さんはもはや会話の内容とは無関係に眼鏡属性を発揮し始めていた。この女は、眼鏡男子全般を応援しているのだ。
そこへ噂の本人がやって来た。女子社員の不毛な会話は、一時終了となる。
「部長。珈琲と紅茶、どっちが良いですか? デスクまでお持ちしますよ」
背の高い部長を下から覗き込むと、リナちゃんは屈託のない笑みを浮かべて言った。後ろ手に組み、胸を張り、これ以上ないくらいに艶かしい目つき。少し開いた自然な口元は良い感じに潤っている。これは先ほど塗り直したリップクリームの効果か!
……うん、実にあざとい。
傍観者である足立は、感心するような表情で彼女を観察し続けた。
「じゃあ、珈琲を頼むよ」とだけ答えると、部長はそそくさと給湯室を去っていった。男性にとってここは、居心地の良い空間とは言えないのだ。
一時的に断ち切られた噂話の連鎖は宙ぶらりんのまま置き去りにされ、足立を除く女性社員はそれぞれに妙な敗北感を秘めながら各々の持ち場へと戻っていった。
「先輩は、お砂糖なしの紅茶ですよね?」
リナちゃんは足立に向けても、部長の時と同様の振る舞いをする。こういう姿を見せつけられると、およそ計算ではないようにも感じてしまうし、もしそこまで計算済みでやっているとしたら、この子にはあまり悪い態度を取らない方が身の為だと足立は心の中で強く思っていた。
どのみち足立は、こんなにもキャラの立った後輩を嫌いにはなれそうにない。周りの連中が保身のためにできないことを平気でやってのける図太さや、誰かれ構わず媚を売るような姿勢もまた、まるで別世界のエンターテインメントを体験するような面持ちで眺めている。
計算高い彼女のことだから、社内で余計なことを口走らないように用心している足立の本性もまた、実はすでに見抜いているのかもしれない。すべての社員は、彼女の手のひらの上で良いように転がされているに過ぎないのだ。
やり手の彼女が社長婦人になったなどという噂を耳にしても、心から驚く者はこの会社にはいないだろう。
「よしっ」
昼休みが終わり、デスクに戻った足立は長い髪を束ねて小さく意気込むと、後半の仕事をつつがなく終わらせるため、集中して作業を開始した。
リナちゃんはそんな彼女の姿を、微笑みながら眺めていた。
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