第3章

兆候

第17話 「あなた、宇宙人と遭遇したことは?」Aパート

 椰子やしの木のイラストが全体に散りばめられた肌触りの良いジップアップパーカー、黒いレギンスの上に履いたショーツ、軽量化された通気性の良いシューズに身を包んだ前野は、廊下側から玄関の鍵を閉めるところだった。


 近所のランニングなど適当なジャージで良いとは思いつつ、インターネットで検索するうちに気がつけばひと揃いまとめてカートへ放り込んでいた。断じて松田に言われたからではない。


 エレベーターを降り、エントランスを抜けると、駐車場の辺りで一人の男がマンションを見上げ、佇んでいた。見かけたことのない男だ。


 黒いスラックス、黒いタートルネック、黒いトレンチコートの前をベルトまでしっかり閉め、全身の衣服が黒一色である。黒い革手袋をはめた右手にはトランシーバーのような端末を持ち、アンテナの伸びた部分をマンションの方へ向けている。


 エラの張ったやつれ顔に、寝癖のようなくしゃくしゃの髪型。それに、生気の全く感じられない目つき。あからさまに怪しい。怪しさを具現化したような男!

 

 前野は知らぬふりをして通り過ぎようかとも考えたが、何者なのか、やはり気になるところだ。


 計器の測定に夢中になっている男のそばへ静かに歩み寄りながら、彼は後ろからこっそりと液晶を覗き込んだ。複雑に入れ替わる数字の羅列、そこかしこに点在する英字、画面の中央でじりじりとした波形がうごめいている。


 何かの数値を探っているのか? そう考えていた矢先、相手の肩がぴくりと反応した。前野の身長が高いせいで、相手の液晶に影を落としてしまったようだ。


 男は、静かに振り向いた。


「何か?」


 ギョロッとした目つきで、一瞬のうちに男は前野を検分した。瞳の奥には表情が感じられず、濁ったガラス玉をはめ込んだように無機質極まりない。


「何でもない」すぐさまその場から離れようと、前野は歩き始めたが、「失礼。ちょっとよろしいでしょうか」と男に背後から呼び止められた。


 つい足を止めると、男は予想外に素早い動きで前野の前に回り込んだ。まるで訓練された警察犬のように無駄のない動きだ。


「今、アタシのことを見ていましたよね?」


「は? み、見てませんけど……」


「いいや、見ていました」


 男はゆっくりと前野に顔を近づけ、匂いを嗅ぎ始めた。「アタシが何をしていたのか気になって、覗いていたんですね? あなたは相当に好奇心がお強い方だと見える。ふふふ。実に興味深いですな」


「な、なんですか、あんた」


 男の奇怪な行為と話し方に寒気を覚えた前野は、後ろに一歩退きながら相手を眺めた。四十代前半といったところか。閉じた口の形がへの字に曲がっていて、偏屈な博士のような雰囲気を醸し出している。あまり関わり合いたくない種類の人間に思われた。


「あなた、このマンションの方ですか?」


「だったら何だよ」


 男は右手の指を顎に添え、前野をじっと見つめる。


「ふむ、新しいランニングウェアですか。しかしながら、ビギナーではないようですね。ランニングウォッチはずいぶん使い古されています。リストバンドを新調しなかったのは何か思い入れがあるからでしょうか? 新しいシューズには、すぐには馴染めませんよね? 以前は紐なしのものを利用していたのですか? きつく結びすぎて足元が落ち着かないようですよ」


「ど、どうして……」


 戸惑いを隠せない前野の様子をよそに、男は一人で納得したように頷いて周囲を見渡した。


「静かで良いところです。都心からすぐにこんな良いところがあったんですねぇ」


 男は前野の方に向き直る。「いやはや、隠し事を持ち込むには、格好の立地だと思いませんか?」


「隠し事?」


 警察関係者、それともマスコミの類いか? 前者ならばこれ見よがしに手帳を見せてきそうなものだが。


「あなたはいつも、この時間にランニングを?」


「あ、あんたには関係ないでしょ!」


 前野は男の不気味さに危険を感じ、その場から走り去ろうとした。するとまたもや背後から、「あなた、口はお堅い方で?」と男は問いかけた。


「……いえ、それほど」


 男の台詞に興味を覚えた前野は、足を止めて続きを待った。


「これはひどく内密のお話になるのですが――」男は前野に近づき、寄り添うように肩を並べた。「あなたにだけ、特別にお教えましょう」


「内密なら、他人には話さない方が良いでしょうよ」


 言葉とは裏腹に、彼は今では抗いようのない好奇心にさいなまれている。


「実はですね――」


 ひどくささやき声だ。


「この辺りから不定期にが発信されているようなのです」


 未知の? 発信……?」


「詳細はお話できませんが、アタシはそれを調査するために来たんですよ」


 調査? 個人的にか? そんな機関が存在するなんて話は聞いたことがない!


「最近、身の回りで何か変わったことが起こりませんでしたか? 例えば、付近で発光現象を目撃しただとか、テレビの映りが悪くなる時があるだとか。どんな些細なことでも構いません」


「…………」


 男の突拍子もない話に、彼はむしろ興味が失せてしまった。SFの世界じゃあるまい。


「知りませんよ。なんですか、未知の電波って」


「おかしいですねぇ。研究所が観測を誤ったとは考えにくいのですが……」


「研究所!?」


 本当に機関が存在するのか? それにしても怪しい奴だ。それほど重要な組織ならば、政府から支給された許可証があっても良さそうなものである。単独で行動しているのは公になるのを恐れてか? それとも……。


 至近距離でじっと考え込む男を眺めながら、前野の中にある一つの考えが浮かんできた。


「あんたもしかして、SBCの人間じゃないのか?」


「……は?」


「回りくどい言い方しやがって。うちの部屋にテレビがあるか、確認しようと試したんだろ!」


 男に詰め寄った前野は指を差しながら、「言っときますけどね、俺の部屋にテレビはないし、受信料を払うつもりもありませんから!」


「はぁ、そうですか」


 男は雑草を見るような目つきで前野の顔を眺めた。「何か誤解があるようですが、まぁ良いでしょう。この事はくれぐれも内密にお願いしますよ。ところで――」


 男は一度、大げさに咳払いをしてから、


「あなた、宇宙人と遭遇したことは?」と前野に問いかけた。


「……宇宙人?」


 鏡を覗き込んだ赤子のように、前野の激情は唐突に冷め始めた。なんと子供じみた質問であることか! 男のガラス玉を熱心に覗き込んでみるも、冗談で言っている風には見えなかった。


「そ、そんなの、フィクションだろ。世界各地の目撃情報はどれも信憑性がないものばかりだ。下手な合成映像はいくらか出回っているようだが、どの公的機関からも確認されたという正式な発表はないはずだぞ!」


「おや、何だかその手の情報にお詳しいようですね?」


「……いや、そんなことはない。こ、これくらい、普通だろ?」前野は続けて小声になりながら、「いるなら、俺が一番会いたいさ」と呟いた。


「ほう」


 前野の様子を眺めながらへの字の口元をにやけさせた男は、不気味な笑みを浮かべた。「もし、いるとしたら?」


「遭ったのか!?」


 つい、声が震えた。前野の肩には力が入り、拳を強く握りしめている。男の方へと歩み寄りながら、ガラス玉に映った険しい顔つきの自身を覗き込む。


「いやはや。お恥ずかしながら、アタシもまだ目撃には至っておりません」男は一歩後ろに退きながら言った。「彼らは周到であり、用心深い。それゆえ探し当てるのは相当な困難を極めます」


「……何だ、くだらんな」と、前野は顔を背けた。


「ですがね――」


 男はにやけた口元のまま早口で続ける。


「彼らは常に身体の一部から微弱な電波を発しているのです。なぜならそれは、この星では未開発の精密機器を体内に埋め込み、持ち運んでいるからだと我々は推測しています。アタシたちの組織は、その電波を計測できる装置の開発に成功致しました。偶然の産物ですがね。まさしく! これがそうなんですよ」


 見ると、先ほど男がマンションに向けていたトランシーバー風の端末である。どうにも胡散臭い。ただの赤外線サーモグラフィーじゃないのか?


「まだまだ未完成なもので、正確な座標までは特定できませんが、この辺りであることは間違いないんです!」


 男はひどく興奮しており、ガラス玉が落ちそうなくらいに目を見開いていた。


 ここらが潮時であると、前野は遅まきながら判断を下した。この男は信用できない。これ以上関わるのは危険だ!


「あぁ、大変ですね。じゃ、俺はこれで」


「あっと、これは失敬!」


 三度前野の離脱を阻害した男は彼の肩を掴むと、胸ポケットから一枚の名刺を差し出した。「何か変わったことがあれば、いつでもご連絡ください。それでは」


 前野がしぶしぶそれを受け取ると、男はその場から足早に去っていった。どうしてしつこい連中は皆、去り際があっさりする傾向にあるのか。


 そう思いつつ、前野はようやく日課のジョギングを開始した。

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