第18話 「あなた、宇宙人と遭遇したことは?」Bパート

 その晩。今夜は、全く風が吹かない日だ。


 窓を開けていても風鈴は微動だにせず、出来の良いてるてる坊主のように、しっかりと口を噤んでいる。


「気分が乗らないな」


 パソコンで調べ物をしていた前野は、腕組みをして椅子にもたれながら、液晶を見るともなしに見ていたが、やがてゆっくり目を閉じると瞑想を始めた。


 果てなき草原、辺り一面は暗闇に覆われ、澄み切った空気が漂っている。そんな世界を描くつもりが、気づけば後ろから何者かに付けられていた。尾行にしてはやけに堂々としており、むしろ、慌てふためいた様子である。徐々にその音はそばに近づき、やがて――。


 隣室から、足音が響いた。


 隣から人の気配がすることなど、初めてのことである。前野は目を閉じたまま、じっと耳を澄ました。すると、何やら甲高い声が響いた。


 奴の声か? ……いや、違う。女の声だ。足音もひょっとしてそいつか。


 奴に来客とは珍しい。野外遊戯の延長線上というやつか。当の本人の声は、不思議と一切聞こえてこない。いやに通る女の声ばかりが響いているが、それもどこかこもっていて、はっきりとは聞き取れなかった。


「……やかましい声の女だな」


 言葉が聞き取れない以上、それは前野にとって迷惑以外の何者でもない。窓を閉めようかとも考えたが、そうすると風鈴の音が聞けなくなるうえに、こちらから気を使ってやるのもまた、どうにも気に食わない。


 結局、そのまま放置することにした前野は、再び瞑想の世界へと沈み込んだ。


 宙を浮いている。小型のセスナを操縦し、広大な空を自由に駆け回っていた。遠くに、雲が見える。どんよりと暗い色をした分厚い雲だ。あそこへ入り込むのはまずい……。


 直感でそう判断した前野は咄嗟に旋回し、何とかやり過ごそうと試みたが、雲は急速に肥大化を始め、まもなく視界を覆った。


 視界の悪い雲の中では雷鳴音が轟き、脳天に突き刺さるような甲高い音を響かせている。それはまるで――。


「うるさい女だ……」


 前野はようやく、窓を閉める決意を固めた。のろのろと立ち上がり、窓の取っ手に手を触れた瞬間、彼の身体はピクリと反応を示した。例の女が一際でかい声で、とある言葉を発したからである。


「死活問題?」


 と、そのような台詞が聞こえた。女には何か切羽詰まった事情でもあるのか?


 前野は机の上に置いた煙草を掴み、ベランダに出た。案の定、外の方が幾分か女の声を明瞭に聞き取ることができた。


「プリント?」


 複写……。まさか、偽造パスポートか何かの話だったりしてな。――はは、考え過ぎか。


 煙草を吸いながら、前野は隣室の話に耳をそば立てる。だが、聞き取れる単語は限られており、上手く話が見えてこない。


 ……止まらない。……ミステリアス?  ……新しい自分。何を意味するのか。そのすぐ後に女が、「そういうもんです!」と怒鳴ったきり、会話は聞こえてこない。


 前野は引き続きベランダで聞き耳を立てるつもりだったが、そこへ予期せぬ強風が吹いた。部屋に吊るした風鈴は心臓をえぐるような爆音を響かせ、隣室から女の叫び声が聞こえた。


 彼は咄嗟にしゃがみこんだ。しかしながら、隣人がベランダに顔を出す様子はない。


 こっちはベランダで一服しているだけじゃないか。何も悪いことなんてしていないだろ。


 そうは思いつつも、彼はそっと部屋に戻って慎重に風鈴を取り外した。これで静かに観察ができるはずだ。


 気を取り直してベランダに出た前野は煙草に火をつけ、風向きを気にしながら煙を吐いた。毎日繰り返しやってきた動作のはずなのに、この居心地の悪さはなんだ?


「阿呆らしい。なんで俺が……」


 時おり吹きよせる冷ややかな空気に身震いしながら、そろそろ室内に退散しようかと考えていた矢先、男の声が聞こえてきた。


「異星人!?」


 その言葉を聞いた前野は、昼間にマンションの前で見かけた男の姿を思い浮かべた。


 このマンションに宇宙人がいる……。まさか、本当なのか?


 前野は再び、耳を澄ました。何やら隣室の二人は議論をしているようだ。何か企みがあるのかもしれん。


 しかしそこで、呼び鈴が鳴った。


「ちっ。良いとこなのに。早く出ちまえよ」


 しばらく待ったが、二人が呼び鈴に応じる気配はない。どういうことだ?


「…………」


 よくよく考えると、これは……。隣室からじゃない、俺の部屋だ!


 今日は注文した新しい枕が届く予定じゃなかったか。今夜使おうと楽しみにしていたのに、頭の中からすっかり抜け落ちていた。


 前野は駆け抜けるように慌てて自室に戻った。勢い余って身体を窓にぶつけたが、構うことはない。


 素早くインターフォンを耳に当てたものの、応答はなかった。こちらが何を言っても、砂嵐のような音が聞こえてくるだけだ。


 彼は廊下を抜け、急いで靴を履くと部屋着のまま廊下に出た。


 エレベーターでエントランスに降りてみたが、配達員の姿はない。表に停めているはずのトラックも……。


 ポストを確認すると、不在票が入っていた。


「……なんてこった」


 肩を落とした前野は、不在票を片手に部屋に戻った。ベランダに出ると、隣室はすっかり静まり返っている。すっかり盗聴をあきらめた彼は、カーテンレールに風鈴を吊るした。


 ようやく吹き始めた風に揺られると、風鈴は優雅な音色を奏で始めていた。

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