第6話 「デトックス効果は達成できたわけだ」Bパート

『俺はテレビなんて持っていないぜ?』


 前野は相手の反応を伺うようにそう言った。すると、耳元に広がる空気はみるみる変化していく。


『……持っていない? 嘘はいけませんね! 嘘はっ!』


 彼は語気を強め、間を置かずに捲し立てた。


『先ほどあなたの口、その口でおっしゃったではないですか、わたくし共の番組はつまらんと、真面目すぎると、くさっていると!


 内容に関して何と言われましても、一向に構わないのです、で・す・がっ! 嘘は見逃せません、嘘はっ!』


 突然の鋭い切り返しに戸惑いながら、前野は咄嗟に『し、知り合いの家で見たんだよ』と応えた。


『………………』


 長い沈黙だった。


 奇妙な静けさが続き、相手の沈黙には徐々に勢いが増すように感じられた。気づけば頬には汗が伝い、油断すれば耳元から別世界へと引きずり込まれてしまいそうである。


 だがそれは所詮錯覚であり、ただの静けさであると自身に言い聞かせ、受話器にべったりと貼り付きながら耳を澄ますことがやめられない。


 やがて、鋭い咳払いが耳元を突き刺した。


『私もね、この仕事を長くやっておりますもので、テレビをお持ちかどうか、少し話せばすぐに、――分かるんですよ』


 久方ぶりに聞く男の声は(振り出しに戻ったように穏やかな調子であったが)、ひどく乾いていた。


『あなたは完全に、黒です!』


 彼の声はまたも唐突に荒ぶり、『どう取り繕っても隠しきれないもの、というのは、確かに存在するんです!


 テレビをお持ちのお宅からは、実は特殊な電波が出ておりましてね、それらを機械で、計測できるんです。今も私の目の前でしっかりと、波形が動いておりますよ。隠しても、ダメなんです。すぐにバレてしまいますからっ!』


 フフフフフと、奇妙なリズムで無感動に笑う声が耳元を撫で回す。


『パンフレットだけでもお渡ししたいので、解除を、お願いできませんか?』


『持っていないものは、持っていないんだ』


 気づけば、口に咥えていた煙草はすっかり湿っている。こうなると吸いたい気分は途端に薄れてしまうものだ。


『…………』


 またも沈黙。だが、今回はそれほど長くは続かなかった。


『では、また後日改めてお伺いさせていただきます、進展がございましたらお知らせください、パンフレットはこちらのポストへ、――本部にお問い合わせいただきまして直接ご契約いただくことも可能です、次回は良きお返事をお待ちしております、それではっ』


 それらを早口に言い終えると、耳元の気配は瞬時に消え去り、後にはノイズ音だけが残った。あれだけ粘っておいて、帰る時は潔いものだ。


 受話器を置くと、前野は湿った煙草を指でつまみ、大きくため息を漏らしながら後ろを振り返った。目の前には、強盗に入られたように散乱した空間……。彼はさらに一回り大きくため息を漏らすと、煙草をごみ箱に放り投げた。


 前野という男は、こだわりの強い面はあるものの、潔癖症というわけではない。


 むしろ周囲にはどこか、ズボラな印象を与える。それはひとえに外見によるものが大きかった。190センチ以上ある長身に、あえて剃らずにうっすらと生やした無精ひげ、極太の眉毛の下には、眼力の鋭い犬のように潤んだ瞳が並んでいる。


 年中きちんと部屋を整頓するような性分を持ち合わせてはいないが、一定以上散らかった部屋を見ると何かに突き動かされるように掃除を始めるため、今日のような時期は定期的に訪れていた。


 掃除のついでに模様替えをすることも多く、ベッド、本棚、テレビ(実は持っている)など、数少ない家具を配置する場所は少なくとも年に四回以上変えているが、机の位置だけは必ずベランダ側の風鈴近くと決めているため、パターンはある程度限定されていた。


 物事を行うために最も重要な資本は、体力にある――。それが彼の持論であり、そのため昼間から夕方にかけてのジョギングは欠かさない。


 三十代も後半に差し掛かってきた彼は、健康面にも気を配りたいところであったが、酒と煙草はやめられそうになく、そこはジョギングと牛乳により差し引きゼロの関係を保っていると本人は本気で信じ込んでいた。


 完全に気力を失った彼は、部屋の隅をぐるぐると何周か歩き回った後、玄関に向かう短い廊下に立ち、出し抜けに冷蔵庫を開いた。


 食材はあらかた使い切っている。目に付いたのはマーガリン、チーズ、それにナンプラーだけだった。ジョギングの後には必ず牛乳を飲むことに決めているため、それまでには何としても買い出しを済ませておかなければならない。


 となると――。


「おやおや。これはスーパーに行かないとな」


 片付けを放置する口実を何とか絞り出した前野は、口元をにやりと歪ませた。


 眠るまでには確実に始末しなければならないが、まだ十分に猶予はある。気分の乗らない中で作業を進めることほど、苦痛なものはないのだ。


 室内用のロングカーディガンをゆったりとしたグレーのダッフルコートに羽織り直すと、年中履いているルームシューズを玄関に残し、部屋を後にした。


 扉を出ると、隣室の扉にまさしく鍵を差し込もうとしている若い男の姿があった。前髪の重たい、例の音なし男である。前野の存在に気が付くと垂れた目を向けてきた。


 少し眠たげな表情だ。これが”朝帰り”ってやつか?


「おはようございますっ」


 男は充血した目つきにも関わらず、活発な挨拶を寄越した。前野は小声で挨拶を返すと、うつむき加減に男の後ろを通り過ぎ、エレベーターホールへ進んだ。


 フロアには全部で四つの部屋が並び、エレベーターはマンションの中央に設置されているため、隣室を越えたすぐ先にある。エレベーターの前には四〇三号室の開け放たれた玄関に向かい、地面や壁に青いシートが敷かれていた。どうやら引越し作業が行われているようだ。


 四月に入ってから引越しとは、ずいぶんのんびりした奴だな。


 エレベーターが来ると、ダンボールを抱えたつなぎ姿の似たような男二人組が現れ、素早く部屋の中に運び込んでいった。前野は二人の後ろ姿を目で追いながら中へ乗り込む。「戻るのをわざわざ待ってやる義理もないか」などと思いつつ、すぐさまボタンを押した。


 一階へ降り、エントランスを出ると、前野は近所のスーパーに向けてそそくさと歩き出した。

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