第5話 「デトックス効果は達成できたわけだ」 Aパート

 四月六日。春、真っ最中である。


 この季節の持つ晴れやかな印象、それとはおよそかけ離れた可愛げのない裏の顔(獰猛どうもうで非情な花嵐である)が部屋中を吹き荒らすと、カーテンレールに吊るした時期外れの風鈴は乱暴に金管楽器を扱ったような雑音を辺りに撒き散らす。


 前野はそんな粗末な音色にすら、愛着を持って耳を傾けていた。


 それほど、風鈴という存在は大きい。


 表を走る車の走行音や、廊下で突如騒ぎ立てる子供の泣き声に始まり、天井から踵で地面を打つ品のない足音、隣室からは風圧で物が吹き飛びそうな程の扉の開閉音が、夜中にはどこからともなく掃除機や洗濯機を回す運転音が、自室ですら暗闇の中で唸る冷蔵庫の稼働音が響き渡り、室内で過ごす人間にとって生活音は唯一避けようのない災害のうちの一つだ。


 どこまで遠のいても形を歪めながらしつこく鳴り止まない救急車のサイレンなどは、最も忌むべき存在だろう。


 風鈴の音色には、瑣末さまつな事象の積み重ねにより尖った神経を和らげる効果がある。少なくとも、前野はそう信じている。


 ゆえに彼は、睡眠時や外出時以外には滅多なことがない限り窓を閉めない。


 表で永続的に立ち話をする主婦の喧しさに不愉快な表情を浮かべつつも、本能的に聞き耳を立ててしまう彼は、荒んだ精神を風鈴の音色ですぐさま浄化するといった次第なのである。


 都心からほど近く、閑静な住宅地が建ち並ぶ好立地五階建てマンションの四階部分、それも角部屋に位置する七畳ほどの空間には、普段から気持ちの良い風が勢いよく吹き込んでいる。


 正面や裏手にはこの高さに匹敵する建物もないため、比較的見通しの良い立地となっているが、ベランダから眺める景色にはこれといった情緒を感じない。


 階下にはエントランスに通じる十メートルほどの空間(両側から車のヘッドライトが睨み合うような形で配置された駐車場と、その中央にぽっかりと空いた一本道)、敷地を出ると、すぐ目の前には大通りが左右に延びている。


 さらにその先には、太古からそこで居を構えているのではないかと疑う程に古びた日本家屋の屋根が視野全体に広がる。


 太陽光が照り返すオーシャンビューが見渡せる訳でもなく、ましてや、蜜柑色に輝く夕日の沈む先に富士山がそびえ立つ絶景でもない。


 至って平凡であり、なんの変哲もない風景である。


 けれど、彼のような隠遁いんとく生活を送る者にとってはうってつけの環境だった。人通りや交通量も少なく、静かに過ごせる。その点においては大いに満足していた。


 このマンションの間取りは、各階ごとにがらりと違う顔を見せる。


 一階と二階には子連れの家族層が暮らす広い間取りの部屋があり、三階には二人暮らしに適切な間取りが、そして、前野の住む四階と最上階の五階は一人暮らし向けのワンルームで構成されている。


 階下では時おり子供の喚き声が響くこともあるが、上層階の住人は揃って静かなものだ。


 殊に、現在の隣人に至っては、恐ろしく物音を立てない。


 まるで宙を浮いているかのように足音が聞こえてこず、掃除や洗濯をどの時間帯にしているのかも検討がつかない。


 廊下で何度か見かけた姿から、二十代の若い男性と推定するが、すれ違う度に馴れ馴れしく挨拶を寄越してくる。毎日決まった時間に仕事へ行く訳でもなく、帰宅の時間は不規則で朝方に帰ってくることも多い。


 外での活動を主とした人種か? 部屋が静かなのは結構だが、どうにもチャラついた印象だ。



「全くもって、終わりが見えんな……」


 と、独りぼやいた。


 その言葉を合図に、彼の集中力は尻尾を勢いよく引っ張られた哀れな猫型ロボットのように、唐突にその機能を停止した。


 本棚に収まっていた雑誌や書籍は地面に散乱し、無事に棚の中へ返り咲くか、あるいはゴミ集積所行きかという取捨選択を迫られた状況のまま放置されている。


 クローゼットに収納された四段の引き出しも全て取り外され、中に入っていた衣服や雑貨、文房具なども単純にひっくり返しただけといった風に、すべてがごちゃ混ぜの状態で部屋の中央に散らかり放題の惨状となっていた。


 数時間前、机の上を整理する彼にこんなお告げがあった。


 ――チューニングを行う前に、全てをさらけ出そう。それからだ。


 今思えば、それは単なる悪魔の囁き、はたまた胡散臭いヨガ教室のうたい文句か……。


 程度の低いスローガンが脳内のアドレナリンを刺激し、部屋中に収納した一切を勢いで広げ始めたまでは良かったものの、いざ分類をする段階に来てふと正気が舞い戻ると、すでに取り返しのつかない事態であることをようやく思い知った。


 本棚に手をつけたことがそもそもの間違いだった。いや、今さら何を言ったところで。


「まぁ、デトックス効果は達成できたわけだ」


 ちくしょう。あの忌々しいテレビ局の集金係が来なければ、ここまで気乗りしない状態には陥らなかったはずだ。


 つい先刻、終わりなき労苦に嫌気が差し始めていたところへ都合よく呼び鈴が鳴り、前野は作業から逃げるようにインターフォンを手に取った。


 真っ先に耳へ届いたのは、ナメクジのようにねっとりとした吐息だった。


『こんにちは。わたしは、SBCの牛島と申します。受信料の件で、参りました』


『なんだって? 受信料?』


 前野は受話器を持っていない方の手で煙草を箱から取り出し、口に咥えた。室内なので、火を付けるつもりはなかった。


『はい。テレビをお持ちの方は、SBCの受信料が発生致します。そちらを、正式にご契約いただきまして、毎月収めていただく必要が、ございます』


 独特のイントネーションでゆったりと話す男の声には、どこか陰湿な味わいがある。受信料など後づけの理屈に過ぎん。そんなものは奴らのエゴだ!


『SBCの番組なんて観ない。真面目くさってつまらんだけだろ』


 短く刈り込まれた癖のある硬い髪を触りながら前野がそう言い放つと、受話器の向こうは突如として静寂に包まれた。


 けれどよく耳を澄ますと、衣擦れのような音に混じって相手がインターフォン越しにする呼吸を感じとれる。


 しばらくして、相手は口を開いた。


『そうですか。しかしながら、今の話し方から察するに、もちろんテレビはお持ちなんでしょう? その場合、残念ながら、わたくし共の番組をご覧にならなくとも、受信料は発生して、いるんです』


『…………』


『詳しいお話は玄関口で、直接差し上げたいと思います。まずは、オートロックの解除を、お願いできませんか?』


 首を締めつけんばかりの声である。勧誘のやり口はどこも似たようなものか。


 前野は相手の声から、その姿を想像してみる。きっと蛇みたいな目つきのしつっこい奴に違いない。


 向こうさんの要求に未だ法的な強制力は付与されていない。今すぐ受話器を下ろしてしまえば、この状況からは難なく逃れられるはずだ。


 しばらく時間を置き、再度煩わしい作業へと没頭するうちに、陰気な声の主も諦めて帰ってしまうことだろう。


 ――だが、その選択肢はつまらない。


 次にこの男がどのような反応をとるか、無性に確かめたくなる。……悪い癖だ。

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