第4話 「そんな理不尽な話、あります?」 Bパート

 一定の間隔を置き、ガス開通の立ち会いや新調したカーテンの受け取り、電話線の開通などにも時間を取られた。


 電話線の開通に至ってはコンセントの都合上、先ほどせっかく配置した机をどかさなくてはならなかった。


「もういい。なんせ、土日もあるんだからね。ゆっくりやろ! とりあえずカーテンはついたし、テレビは見られるもん。ところで、……プロバイダーはまだかしら」


 壁掛け時計で時間を確認すると、午後一時を少し回ったところだった。早いうちに、お隣さんへの挨拶も済ましてしまいたい。


 足立はウェーブがかった茶髪を束ねているゴムを解くと、冷蔵庫からペットボトルの烏龍茶を取り出し、直で飲みながら全身鏡の前に立って自身の姿を眺めた。


 胸元まで伸びた髪は結んでいた箇所で折り目になっており、黄色い長袖のTシャツに白のスラックスはほっそりとした身体と控えめな胸に対し大きめで野暮ったい。すっぴんの離れた細い目元には隈が出来ていた。


「ないわ……」


 烏龍茶を机の上に置くと、すでに救出済みの洋服の中からなるべく綺麗めのものを見繕った。


 紺の下地に赤い花柄をあしらった膝上丈のサテンスカートと、フリルのついた薄いベージュのシフォンブラウスを合わせ、再度全身鏡の前に立つ。髪を手櫛で適当に直しながら、身体をゆっくりと回転させて出来栄えを確認した。


「こんなもんかしらっ」


 隈が目立たないように軽くお化粧を済ませ、バラの香りの香水をほんの少しだけ首筋に塗る。


「髪は、……まぁいっか。そんなに気合入れなくたって」と、今さらながら妥協した。


 引越し前に買っておいた菓子の詰め合わせを引っさげ、いつの間にやら行方不明になっていた鍵を数分かけて探し出し、足立はようやく部屋を出た。


「まずはこっち!」


 自室の扉を出てそのまま左手に進み、突き当たりにある隣室の前に立つと、扉の前で一度大きく深呼吸をしてから呼び鈴を鳴らした。


 表札は掛かっていない。この階層は一人暮らしの者ばかりだと不動産から聞いているが、果たしてどういった人物が住んでいるのかしら。決して出会いを期待している訳ではないのだけれど、それでもこういうのって何だか緊張する。


 そんな不安と期待の入り混じった気持ちも虚しく、何度か鳴らしてみたものの、誰も出てくる気配がない。


「まぁ、平日の昼間だしねぇ」と、軽くため息を漏らす。


 足立はポストイットにメモを書き残し、菓子の紙袋をドアノブに掛けた。


 次にエレベーターを挟んだ反対側の扉の前まで歩いて行った。どうせ不在だろうと、今度は間を置かずに呼び鈴を押した。続けて二回鳴らしたところで、部屋の中からドスンという音が聞こえてきた。


 てっきり不在だと思い込んでいたので、足立の中に突然の緊張が走る。室内からは何かを引きずるような音が聞こえ、こちらへ向かって来ている。


 ほどなくして、玄関の扉が開いた。頭を掻きながら寝癖頭で出てきたのは、まるで韓流スターみたいな塩顔の男だった。


「…………」


 無言。そして、フリーズ。


「えと、どちらさまでしょうか?」


 男は目をしばたたかせ、上下ばっちり揃ったシルクの青いパジャマ姿で尋ねてきた。


「あ、あの……」


 正直言って、わりといい男である。少し垂れた目元には、包容力のようなものが感じられた。


 足立は言葉に詰まりながら束の間表情を強ばらせたものの、すぐに愛嬌のある笑顔を浮かべ直し、スマートな角度でお辞儀をしてみせた。「初めまして。私、今日隣りに越してきた足立と申します。これ、つまらないものですが――」


 上品な笑顔を浮かべ、菓子の詰め合わせが入った紙袋を差し出した。


「ふあぁ……」


 男は眠たげな眼差しで目の前の紙袋を呆然と見つめていたが、やがて目を見開くと、「あっ! お隣さんですか?」と勢いよく尋ねた。


「え? あぁ、はいっ! お隣さんです。えへへ」


 戸惑い混じりの妙な笑い方をしてしまった。この人、寝ぼけてるのかしら?


「わざわざご丁寧にありがとうございます」


 男はようやく紙袋を受け取り、「僕は坂口と申します。こちらこそ、よろしくお願いしますっ」と言った。


 なんだ。良い人そうじゃん。顔も悪くないし。


 男は受け取った紙袋を抱えたまま、不意にくんくんと匂いを嗅ぎ始め、「お花の香りがしますねぇ。この箱の中身からでしょうか?」と尋ねた。


「へっ? い、いやぁ……」


 やけに正直な笑顔。前言撤回。……ちょっと変わった人かも。


 屈託のない笑顔で見つめてくる彼に対し、「きっとそれは、私の香りですよっ」とは訂正できない。いや、したくない。


 足立は少し歪んだ笑顔で相手を見つめ返し、「お休みになられていたんですか?」と話題を変えるように尋ねた。「すみません、お邪魔しちゃって」


 口元に手を当て、あくまでも清楚に!


「全然問題ありませんよ? 今日は休みなので」


 男は少し首を傾げ、笑顔を向ける。


「引越しって片付けが大変ですよね。せっかくのお隣同士ですし、お困りのことがあったら何でも言ってくださいっ」


 笑うと、垂れた目が綺麗な半円を描く。――うん、悪くない。


「ありがとうございます」


 足立は舞い上がって満面の笑みを浮かべると、「引越し後の片付けって思ったより大変で……、業者さんがちゃちゃっと手伝ってくれれば、すぐ終わるのにって思いません?」と同意を求めるように言った。


「私の部屋もまだダンボールだらけで足の踏み場もないですよ。それよりもダンボールって、単品でも重ねると案外重たいんですよね、一旦ベランダに置いておこうかとも考えたんですけど、もし雨が降ったらそれこそ悲惨なことになるでしょ? だからって廊下は共有スペースだしそれでも部屋の中はどんどん溜まってきちゃうし、もうどこへ置いておけばいいやら……、いつ片付け終わるのか検討もつきませんよぅ!」


 ――などと。ついつい早口で話してしまってから、足立は咄嗟に口を塞いだ。


 男は無言でこちらを見つめている。やばっ。マズった?


「あぁ。それなら、今からお手伝いしましょうか」


「……へっ?」


 目つきを見る限り、それは社交辞令ではないように思えた。下心も、煩わしさすらも垣間見れない。え、ちょっ、……天使? だけれど、そこはぐっと堪える必要がある。なんせあの部屋には……。


「いえいえいえっ! そ、そんな……。大変だとは言いましたけれど、一人で大丈夫なってことですよ。ほらっ! 私って荷物片付けるの結構好きなんです。また今度、ご相談したいことができたら、その際には頼りにさせていただきますわ。おほほほほほっ!」


 足立は血走った目を見開き、頬に手を当てながら早口に断りの言葉を述べた。男はまたも首を傾げ、不思議そうな表情で彼女を見ていたが、やがて笑みを浮かべると、「僕も、片付けは結構好きですっ」と答えた。


 その無垢な表情には、足立を不審がる様子は微塵も感じられなかった。


「そ、それじゃあ、また……」


 彼にお辞儀をして早々に自室に戻った足立は、室内を眺めながら深いため息をついた。


「さすがに、部屋は見せられないかな……」

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