第3話 「そんな理不尽な話、あります?」 Aパート

 三月下旬のある日――。


『え、えぇっ! それっ、ど、どういうことですか!』


 ハンズフリー通話にしたスマートフォンに向け、足立は咄嗟に大声で怒鳴りつけていた。


『ですから、当物件は二年毎の自動更新ではないんです。まもなく二年が経過致しますので、契約の更新をされていない方々には、ご退去の通知をさせていただいております』


 スピーカーから響く男の声には、心底うんざりとした様子が伺えた。


『……そんな理不尽な話、あります?』


 足立は眉毛を描く手を止め、鏡に映った自身に向かって顔をしかめた。右の眉が上手くいかない。いや、まだリカバーできるはず!


『だったら、今すぐ更新しますよっ! それで問題ないんでしょ?』


 すると、相手が小さくため息を漏らすのが聞こえた。


『更新についてのご通知は、数ヶ月前から何度もお送りさせていただいております。ご確認はなされましたか?』


『…………』


 そういえば、不動産から何通か封筒は届いていたが、足立はてっきり何かの勧誘かと思い、即座に捨ててしまっていた。そんなに重要なら真っ赤な封筒にでも入れて欲しいものである。


『有効期間内に更新手続きをして下さらなかったので、つい先日そちらのお部屋は、別の方に契約が決まってしまったんですよ』


『なによそれ……。何でもっと、早く電話を寄越してくれなかったんですか! 最終確認とか普通するでしょ?』


『お電話も、何度か差し上げたはずですが――』


 あぁ、非通知のやつかぁ……。うん。八方塞がりだ。右の眉も難航してる。


『じ、じゃあ、……私は、どうしたらいいんですか!』と足立は開き直ってみるが、

『ご期待に添えず申し訳ございませんが、現段階で当社からご提案できるサービスはございません』と相手は機械的に述べる。


 でた。締めの定型文。こういうのって、何だか冷たいよ。


『契約満了までに、速やかに別の入居先をお探し頂くようお願い致します』


 通話を終えた足立は、怒りのあまりスマートフォンを洗濯物の山に向け力強く放り投げたが、すぐに正気に戻ってそれを拾い上げた。


 引越しの費用にスマホの修理代まで加算されては、それこそ生きていけない。


 卓上のスタンドミラーに向き直った彼女は、急いで朝の支度に戻った。


『あぁ、遅刻する……。眉毛描き過ぎ……。引っ越しって、いくらぐらいするんだっけ? あぁ、もうっ!』―――。



「ベッドはどの辺りに置きますか?」


「あっ、えっと、この辺にお願いします!」


 足立は咄嗟に部屋の左奥を指差した。なるべく隅っこの方に立ち、動線の邪魔にならないよう作業員の様子を眺めていたが、運び込まれる荷物が増すにつれ、徐々に居場所を失いつつあった。


「結構ダンボールが多いんで、その辺に積んじゃいますね」


「あっ、えっと……」


 足立の指示が遅いせいか、作業員は次々に運び込まれるダンボールを壁際の適当なスペースに積み上げていく。


「あ、あのっ! あんまり重ね過ぎないでもらえます? 後から一人で動かせなくなっちゃうんで」


「了解でーす!」と答えながら、作業員はまた一つダンボールの標高を上げた。


 作業員が入れ替わりで荷物を運び込む姿を不安げに見つめながら、足立は家具のレイアウトをどうしたものか未だ決めあぐねていた。


 短期間に不動産を探し回り、物件を一日のうちにすべて内見、契約まで、引越し業者の手配に、荷物の梱包と、電気、水道、ガス、インターネットの移行! 頭の中はすでにパニックに近い状況だった。


 物件が決まってからは退勤後に手当たり次第荷物を詰め込む日々が続き、貴重な有給を一日消化することでやっとこさ引越日を確保することができた。


 土日は割増料金なんて、いつ決めたわけ?


「それにしても、多いっすねぇ」


 自身で積んだ山をさも登山家のような眼差しで見上げながら、作業員は呟いた。


「ここと、ここと、あとそこにも、サインお願いしまーす」


「あ、はい……」


 足立は色黒の作業員から、バインダーを受け取った。分譲じゃあるまいし、どうしてこう何ヶ所もサインが必要なのかと内心で愚痴りながら、彼女は渡された書類の空欄を淡々と埋めていく。


「やっぱり、……荷物多いですか?」


 サインした書類を手渡しながら、「捨てられないんですよねぇ」と足立は黄土色の山脈を見上げた。


 どうせなら所々に緑を植えてあげたい。一番上にテーブルクロスでも掛けたら富士山っぽくなるか……。


「あざすっ!」


 帽子のつばを指でつまんで軽く会釈しながら、作業員はバインダーを受け取った。


「まぁ、僕は男なんでよく分かんないすけど、女性の方が荷物は基本的に多いはずだから、大丈夫っす!」


 何に対してよ? 部屋のサイズに対してではないことは確かだろうに。


 男は書類を一通り確認し、一枚目をバインダーから引き剥がすと、「こちらお控えでお持ちくださーい」と言って足立に手渡し、袖で額の汗を拭いてから鞄の中へ書類をしまう。


「もし運び込んだものに破損があったり、部屋に傷がついてしまったようでしたらお知らせください。この度は当社をご利用頂き、――あざしたっ!」


 惜しい……。ひょっとして、同年代? 屈託のない笑顔にこの人懐っこさは、どこか地方色が感じられるし、高校時代は野球なんかしたりして、髪が長いのはその頃のコンプレックスが原因だったり?


 ――などと。阿呆らしい妄想はほどほどにしつつ、


「あ、はーい。どうもご苦労様でーす」と答えた足立は、引越し業者が去るのを玄関から見送った。


 廊下を見ると、ブルーシートはすでにもう一人の作業員が回収済みだった。


「さてと」


 一人になった足立は、未だ家具の配置に悩まされていた。正直言ってこだわりは特にないのだけど、とはいえ何かしら適度な配置にすべきなのは確かだ。


 まずベッドの位置はそのまま左奥にして、それを基準に決めていきましょう! 動かすのも面倒だし……。


 テレビやパソコンは、コンセントの位置からおおよそ置くべき場所が決まるはず。


 初めはベッドと反対の右奥にテレビを配置しようかと動かし始めたが、そうするとテレビの手前に置いた机の椅子が部屋の中央に出っ張る形になってしまうことに気がつき、結局机とテレビの位置を交換し、右奥に机! その手前にテレビ! という配置に落ち着いた。


 まぁ、ありがちよね。


 ベッドの手前にはクローゼットに収まりきらない洋服をハンガーに掛けることになるが、その作業に入るまでにはまだ時間がかかりそうだった。なんせその場所には、不動の山脈がそびえ立っているのだから……。


 荷物を解いて、適切なレイアウトをしてくれる業者とかあれば良いのに。


 やがて山脈の解体に乗り出し始めたが、焦って荷造りをしたせいか、どのダンボールに何を入れたのか一切印をつけていない。


 そのため、色んなところから中途半端にパーツが揃い始めるという謎の現象が起き始めた。


「この靴は何で片っぽしか入ってないの!」


 几帳面さの欠片も持ち合わせていない性格を今になって呪う。家政婦を雇いたい。いえ、どちらかといえば執事の方が……。おじ様の方が仕事はできそうだけど、若い方が目の保養にもなって――、


 などと。あまり成果をあげられないまま、時間は過ぎていった。

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