第7話 「桜が綺麗だから」 Aパート

 チャイムが、怒号を放つ。建物全体が一つの巨大なパイプオルガンのようだ。


 桜の開花宣言を迎え、早一週間。校内のフェンスに沿い、横一列に並んだ綿菓子のような薄紅色は、早くも満開を越え散り始めている。華やかな姿の裏では時おり寿命を悟った末期患者のような表情を垣間見せ、憂いを帯びた侘しさを感じさせる。


 全校生徒は始業式のため、すでに体育館へ移動していた。校舎端の静まり返った美術室から覗く春の趣を味わいつつ、できることならこのまま静かに一日を終えたい。


 ――されど願いとは、ついぞ叶わないものだ。


 お迎えの足音が近づいてきている。他の教師陣と比べ、どこか軽快なメロディを思わせる彼女の足音に耳を澄ませながら、窓際に腰かけた石田は表を眺め続けた。


「あ、ここにいたんですね、石田先生。もう始業式始まりますよ」


 振り返った石田は、太陽光を正面に受ける彼女の姿を眺めた。


 色白の肌、艶のある黒髪、そして、――眠たげな目つき。丸みを帯びたボブカットには、どことなく清廉せいれんさが漂っている。生徒の制服よりもひと回り暗い濃紺のスーツを着用した遠藤は石田よりも四つ歳上だが、年配の人々が自然と纏うような押し付けがましい空気感を持ち合わせていない。


「行かないと駄目でしょうか?」と、石田は垂れた前髪を耳に掛けながら答えた。


 行事ごとは苦手だった。約七百人弱の人間が押し込められた狭い空間は、巨大な生物の胃袋を連想させる。


 入口付近で立ち止まった遠藤は、石田をじっと見つめていたが、しばらくして、「その心は?」と問いかけた。


 ――やはり彼女は、他とは一味違う。


「えーと、桜が綺麗だから……」


 彼女の粋な返答に困惑した石田は、気づけば心に描いた台詞とは全く違う言葉を口にしていたが、彼女はその馬鹿げた言葉についてしばし考えてくれた。


「桜かぁ。それは大いに魅力的な提案ですけど、――却下です」


 彼女は笑顔で答えた。「だって、副担任のあなたがいないと、担任になる私が教頭先生に怒られるんですから」


「それは、仮に僕が副担任でなければ、関係ないような言い方に聞こえます」


 またも口をついて出た台詞は自分でも思いも寄らないもので、加えてひどく素っ気ない響きとなってしまったが、遠藤はそれには気にも留めず、口元に笑みを浮かべ続けた。


「もちろんですよ。あなたが私のクラスの副担任じゃないか、もしくは私がクラス担任じゃなかったら、そうやってあなたが始業式をボイコットしようがサボタージュしようが、知らんぷりするでしょうね」


 彼女は腰に手を当て、耽美たんびな一歩を踏み出した。


「そんなに私が、お人好しに見えます?」


 突き放すような台詞とは裏腹に、彼女の眼差しは万人を包み込む優しさで満ちている。


 石田は咄嗟に視線を逸らすと、淡い景色へ向き直りながら、「……分かりました。すぐに行きますので、先に行ってもらえますか?」と静かに答えた。


 すると彼女は、ラピスラズリのような輝きを放つスカートを翻して光を反射させながら、「はいはい。それでは、必ず来るであろう体育館でお待ちしていますね」と言い、しなやかな足取りで去っていった。


 石田が美術教師としてこの学校に赴任した日から、約半年が経った。


 彼は未だ、新しい環境に馴染む気配がない。口下手で人見知り、それに加えてマイペースな性格が、円滑な人間関係の構築を妨げている。今年度から副担任という肩書きを与えられたが、そんなもの、端から向いていないのだ。


 人前に立つなんて、息が詰まる……。


 石田の心模様を察したように寒々しい風が吹くと、教室に桜の花びらが舞い落ちた。やがて教室を去った彼は、に飲み込まれると、咀嚼そしゃくされた米粒たちの一部となった。


 始業式が終わると、本日の行事は終了だった。部活動の顧問を請け負う教員以外は、この時点で一応の拘束が解かれる。石田は美術部の顧問であるため(美術教師が他にいないからだ)、職員室を早々に抜け出して美術室に向かった。


 美術室へ来ると、この独特の匂いがやはり落ち着く。


 顧問とはいえ、石田が教えることはほとんどない。部員も片手で足りるほどの人数しか在籍しておらず、各々が興味のあるものに対して好きに挑戦していた。稀に助言を求めてくる者もあるが、大抵の場合、女子生徒たちの会話相手を務めるのが彼の役目である。


 愚痴、噂話、恋ばな。ラジオを聞き流すように騒々しい会話を消化しながら、彼は放課後の時間を過ごしていた。


「そいつがさぁ、マジでうざくて! 貸した本とか全部ボロボロになって返ってくんの。ありえなくない?」


 精巧な手つきで上品な水彩画を描きながら、髪の長い女子生徒が話している。


 数える程しかいない部員の名前が、石田にはどうしても覚えられない。とてつもなく凡庸であったか、それとも、難解な読み方であったか。


 とにかく、ここまで髪の長い女子生徒はこの子しかいない。残りは眼鏡をかけた女子生徒に、背の低い女子生徒、それに男子生徒。これが美術部の全部員である。特徴がこれだけはっきりとしていれば、名前を覚えるまでもない。


「ねぇねぇ。先生ってさ、よく見ると結構イケメンだよね? 若い頃とかはモテたの?」


 噂話に飽きたのであろう。髪の長い女子生徒は話題の矛先を石田に向けた。


「今だって、若い頃だよ」


「えっ? 先生って何歳だっけ?」と、背の低い女子生徒が続く。


「二十五歳」


「うちらより八個も上じゃん」今度は眼鏡の女子生徒である。「それ、若いって言わなくない?」


「君たちが子供過ぎるのさ」


 苦笑いを浮かべた石田は教卓の椅子から立ち上がると、窓から校庭の様子を眺めた。へらへらした笑みを浮かべたサッカー部員が鎖のように列を作り、トラックをゆっくりと回っている。


 しばらくの間、女子生徒たちは石田の過去を好き勝手に想像しながら盛り上がっていたが、彼はそれらを聞き流した。


 ――子供は遠慮を知らない。けれど、相手取っても心の消耗は感じないな。

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