第41話 「偽名なんですよね?」Aパート

 週末にかけて遠征に赴いていた足立は、帰宅するとキャリーバッグはそのままに撮影した写真を眺めたり、自分用に購入した温泉まんじゅうを食べたりして過ごしていた。


 致死の戦場から野戦病院に送られた兵士って、こういう安堵感を覚えるのかしら? きっとこんな軽いもんじゃないよね。やっぱり一人って、気楽……。


 旅行は旅行で自然を感じたり友人と騒いだりして楽しいものだけれど、「やっぱり家が最高!」というのが、彼女が外出先から帰る度に出す究極の結論だった。


「そろそろ荷物片付けないと。……面倒くさいな」


 ひと通りだらしない時間を過ごした足立は、ようやく重い腰を上げる。キャスターに付いた汚れを雑巾で拭き、てきぱきと中身を整理していった。始まってしまえば案外早いものだ。


 会社用のほかに、坂口へのおみやげも購入していた。数日前に無理やり追い返してしまったので、その詫びも兼ねて少し上等なものである。おまけに緑茶の茶葉も買った。結構高くついたわね……。


「そろそろ良いかな」


 壁掛け時計で時間を確認した足立は、紙袋に入れたおみやげを手に廊下に出た。ロングスカートにスウェット姿というかなりラフな出で立ちだが、もはや坂口に対して可愛く見せたいだとか、清楚に見られたいだとか、そういった女性らしさを魅せつける願望は生まれてこなかった。――そう、自然体が一番なのよ!


 彼に対して親戚のような親しみやすさを感じてはいるものの、異性として新たなステップを踏み出したいという欲求は特に湧いてこない。


 廊下を出て数歩進み、足立はすでに押し慣れた呼び鈴を鳴らす。


「はーい」


 すぐに室内から明るい声が響いた。なんだろう、この安心感。


 足音も立てずにドアが開いた。あ、カレーの匂い……。


 玄関に立つ坂口は、ねずみ色のスウェットパンツと紺色の長袖シャツ(加えてひどい寝癖である)という格好だった。


「あ、寝てました?」


「いえ、起きてましたよ?」坂口は首を傾げたが、続いて自分の服装を眺め、「あぁ、これは部屋着なんです。寝る時はちゃんと寝巻きに着替えますよ」と言った。


 部屋着と寝巻きの違いってなんだよ……。別に部屋着で寝てもいいじゃないの。寝巻きってどうせ、上下揃いのパジャマとかでしょうね。


「今日はどうしたんですか?」


 普段とまったく変わらぬ態度……。どうやら先日の態度を怒ってはいないようだ。


「えぇと、旅行に行って来たので、おみやげを渡そうと思って」


「僕にですか?」


「そうです」と答え、足立は目を逸らしつつ、「……この間の、お詫びも兼ねてます」


「お詫びですか?」


「先日はひどい態度を取ってしまい、本当にごめんなさい!」


 頭を下げて謝りながら、足立は紙袋を差し出した。


「…………」


 恐る恐る見上げると、坂口は表情が完全にフリーズしていた。『先日』という言葉に思い当たる場面を必死で思い返しているようだ。


「あっ!」彼はようやく記憶がそこへ至り、「体調はもう大丈夫ですか?」と尋ねた。


「……へっ?」


 今度は足立がしばし固まり、「あぁ、はい! 大丈夫っ。温泉効果!」


 えへへ、と笑いながら答えた。


「それは良かったです」


 疑う様子を微塵も感じさせない坂口は、子供のように無垢な笑顔を彼女に向ける。それがどうにも眩しくて、足立は目を細めてしまいそうだった。きっと天使の末裔に違いないわ。ひいおじいちゃん辺りは実際に天使としての役目を果たし――。


「目の調子が悪いんですか?」


「えっ? な、なんで?」


「何だか、眩しそうな顔をしています」


「全然、平気ですけど! き、気のせいじゃないですか?」


 足立は咄嗟に目を擦り、大きく息を吐き出した。どうやら本当に目を細めていたらしい。


 それを見た坂口は一瞬不思議そうな表情を浮かべたが、すぐに元の笑顔に戻り、「そうだ、ちょうど夕食を作っていたところなんですけど、良かったら一緒にどうですか?」


「あぁ、でも……」


 謙虚な姿を見せようとする足立だったが、旅館の朝食を満腹まで平らげたせいでお昼を抜いていたため、扉が開いた瞬間から匂いにつられてお腹の虫が今にも暴れだしそうだった。


「どうぞどうぞ。たくさん作ったので」


「じゃあ、お言葉に甘えちゃおっかな」


 玄関を抜けると、コンロの上に巨大な鍋が乗っていた。キッチン台の上には溢れんばかりの調味料が広がっている。


「少し辛めですけど、平気ですか?」


「あ、辛いの大好き!」


 リビングにおみやげを置いた足立は、早速準備を手伝い始めた。テーブルにお皿を並べ、ご飯を盛りつけ、飲み物を準備っと!


「――いただきます」


 両手を合わせて挨拶すると、白いご飯にかかったとろみのあるカレーを二人で食べ始めた。


「うわ、すごっ!」


 一口食べた途端に驚愕の表情を浮かべた足立は、次いでもりもりとカレーを口に運んでいく。「超絶スパイシーですね! これって市販のカレールーですか?」


「市販のルーは使ってないです。以前働いていた飲食店でインド人の友達が教えてくれたレシピなんですよ」


「さすがインド人……。やるなっ」と唸った足立は、さらに食べ進める。「私、好きな味です!」


「良かったです。わりと簡単なんですよ」


「お店開きましょ! 事務処理なら手伝いますから」


 適当なことを言いながら額に薄っすらと汗をかいた足立は、ぺろりとひと皿平らげてしまった。


 食後の皿洗いは足立が「ぜひにっ!」と申し出た。それくらいはしなければ、実家暮らしの中学生男子となんら変わりがない。


 片付けを済ますと、自宅にいる際の習慣で彼女はテレビをつけた。勝手にチャンネルを回し始めたが、坂口も黙って一緒に眺めている。


 実家に帰省しているみたいだわ……。などと思いながら、足立は横たわって完全にリラックス状態へと突入している。壁一つ隔てた隣室に帰るのも億劫になり始めていた。


 おっと、そういえば――。

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