第40話 「未来が見えるんだよ」Bパート

「こんにちは!」


 男は明るい口調で話しかけてきた。


 聞き覚えのある声だ。……つい最近にも聞いたぞ。


 前野は目を細め、男をまじまじと眺めた。髪も顔もすべてが全身泡だらけで判別は困難だったが、よくよく見ると朝方に出会った隣人ではないか。


 変わった洗い方をする。何か意味でもあるのか?


「どうも」


 多少は驚いたものの、前野は平静を装いつつ、無愛想な挨拶を返した。隣人はシャワーで全身を流し始めている。泡だらけの割に周囲へ全く飛び散っていないのは驚きだった。


 隣人が湯船に向かうのを見届けた前野は、洗浄を開始した。


 掛け湯に始まり、頭のてっぺんからつま先まで上から順に洗い落とすのが前野の洗浄スタイルである。全身を羊のように泡立てるようなことはしない。頭、顔、身体と洗い、手桶の湯で念入りに泡を落とす。


 洗い終えた前野は、合戦にでも臨むような眼差しで湯船に向かった。


 三種類ある湯船のうち、地獄の湯には下町育ちの江戸っ子老人しか近寄らない。奴らは皮膚の感覚がどうかしているのだ。


 前野が中央の湯船に入り、周囲を見回すと、隣人は子供風呂に浸かっていた。それなのに、すでに顔面が真っ赤ではないか。


 タオルを畳んで頭上に乗せた前野は、胡座をかいて座りながら隣人を観察した。


 奴は風呂が得意ではないのか、少し浸かっては湯船の端に腰掛け、また浸かっては腰掛けという動作を繰り返している。やがて観念したように湯船から出た奴は、梅干のように赤く染まった身体をふらつかせながら、早々に浴場を後にした。


 前野が脱衣所に戻ると、パーマのきつくなった隣人は身体の色がすっかり元に戻っていた。何やらぼーっと突っ立ってどこかを見つめている。


 近寄ってみると、目の前には四方が透明な板で囲まれた冷蔵庫があり、びっしりと牛乳が詰まっている。種類は牛乳、コーヒー牛乳、フルーツ牛乳の三つ。昔ながらの分厚い瓶の容器に、薄っぺらな紙の蓋がついたものである。


「どうして、牛乳類ばかりが並んでいるのでしょう?」


 前野の姿を見るや、髪がくるくるになった若者は不思議そうな顔で尋ねた。


「そりゃ、定番だからだろ」


 前野がそう答えると、男は冷蔵庫からフルーツ牛乳を取り出した。しげしげと眺めてから爪の先で紙の蓋を擦って開けようとしている。


「なんだ、開け方も知らないのか」


「以前にいた場所には、こういうものはなかったので」


 こいつ、外国育ちか? 確かに韓国の匂いはぷんぷん感じられるが……。


 前野は冷蔵庫の横にある針のついた栓抜きで、軽々と蓋を開けてみせた。


「おぉっ!」と興奮した様子の男は、前野から瓶を受け取るとそれをじっと眺めている。


「飲み方は知ってるか?」


「普通に飲んではいけないんですか?」


 にやりと口元を歪めた前野は、冷蔵庫から白い牛乳を一本取り出し、蓋を開ける。


「姿勢はこう。足を肩幅に開くと安定する。飲む前には息を大きく吸うんだ」


 片手を腰に当て、前野は一息で牛乳を飲み干してしまった。


「こりゃまずいな!」


 大きく息を吐き出した彼は、顔をくしゃっとさせながら感想を述べた。


「なるほど」


 若者は大きく肯くと、前野の指示に従ってフルーツ牛乳を一気に飲み干した。


「まずいですねっ!」


「そうだろ!」


 前野は笑みを浮かべながら、「分からないことがあれば、なんでも聞け」と自慢げに胸を張り、子犬のように瞳を潤ませている。


 その後、前野は扇風機の風を浴びながら、「そういえば、前に本屋であんたが話してた作家だけどな」と思い出したように言った。


「榎本えすのことですか?」


「そうだ」前野は鏡に写った自身の姿を眺めながら、「近々、新刊が発売されるらしいぞ」と言った。


「本当ですか!?」


「ふん。まぁな」


 冷蔵庫からもう一本牛乳を取り出した前野は、先ほどと同じ体勢でそれを一息に飲み干した。「やはり、一本目には敵わんか」


「そっかぁ。今回はどんな話だろう」


 男は拳を握り締め、心底嬉しそうな表情を浮かべていたが、「でも、どうしてもうすぐ発売だと知ってるんですか?」と気づいたように尋ねた。


「ふむ。それはな――」


 空き瓶を捨てた前野は、得意げな顔つきで腕組みをしながら、「俺には未来が見えるんだよ」と言った。

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