中年オヤジVS悪魔VS天使
網の上で焼けた肉の油が炭火に落ちてジュゥと音を立てる。
立ち上る煙が吸煙パイプに次々と吸い込まれていく。
がやがやと話声が絶えない薄暗い店内の中で「らっしゃーせぇ!」とか「キムチ3種盛り、お待たせしましたぁ!」とバイトの若者の大きな声がしていた。
そんな賑わいを見せる週末の焼き肉店のボックス席に一人、ぽつりと座る男がいた。
紙エプロンを首から下げ、左手にはビールの入ったグラスを、右手はトングでタン塩をつまんでは網の上に乗せていた。
誰かと乾杯をするわけでも談笑するでもなく、黙々と、ただひたすらに肉を乗せていく。
12月25日、今日は彼の48回目の誕生日。
つまり男はいわゆる中年おやじである。
だが、繰り返すが今日は彼の誕生日、つまりそれは記念日である。
だからそのオヤジは「別に仕事終わりに一人で焼き肉屋においしい肉を食べに来ても誰にも文句を言われる筋合いはないだろう。そうだろう?」と思っていた。
そりゃあ、こないだの健康診断で医師からは血圧が高いことに加えて中性脂肪とコレステロール値と
今日は特別だから、明日からまた頑張ればいい。という言い訳で医師からの忠告を忘れることにした。
しかしオヤジは知らなかった。それが最悪の選択だったということを。
なぜならば、彼の身体は日ごろの生活習慣とストレスによって限界まで蝕まれていたからである。
つまるところ高コレステロール血症による動脈硬化が進行していて、自覚症状はないものの彼の身体状況は崖っぷちであった。
そこに脂たっぷりの焼肉、そしてビール。
最悪である。
「よーぅし、食べるぞぅ!」
と、オヤジがいい具合に焼けた脂のしたたるタン塩を食べようとした瞬間だった。
「あーん」
いきなりタン塩は消えた。
いや、いきなりボックス席の隣に座ってきた怪しげな女の口の中に消えたと言った方が正しい。
「あっ! な、なんだお前は!」
オヤジは激怒した。当然の反応だ。
女は大学生ぐらいの年頃で、童顔なのも相まって未成年にも見えた。
右手にはオヤジの握っていたはずのビールジョッキを持っていた。肩まで伸ばした茶色の髪の毛におよそ焼肉に来たとは思えない場違いなまでの白色のふわりとしたワンピ―スが眩しい。
「まぁまぁ、いいじゃないですか」
ふわふわした声でやんわりと言われると、なんだかどうでもいい気になりそうに……
「いや、よくないだろ。なにしてくれてんだあんた」なるわけはなかった。
「それより聞いてくださいよ。私たちせっかく焼肉屋さんに来たのに満席であと1時間待ちって言われたんですよ、こんなに空腹なのに、ひどくないですか?」
「しょうがないだろ、店の都合なんだから」
「いいえ、しょうがなくありません。だって、あなたが1人でこの4人も座れるボックス席を使ってるから後の人がつっかえているのです。だから私たちがあなたと一緒に焼肉を食べることによって待っている人たちの時間を減らそうとする、つまりは社会貢献です。あなたはそんな献身的な私たちの行動を否定するのですか?」
「いやそれはあんたがすぐに焼肉食べたいだけだろ」
一も二もなくオヤジは事の本質を告げた。
「そうだそうだ!」
オヤジが前を向くとそこにはもう一人、同じ年頃と思わしき女が座っていた。
隣の子とは対照的に黒に統一されたロングTシャツとジーンズを身に着けていた。
「……あんた誰?」
「あたし? あたしは店の外で順番が来るのを待ってたら、急にこいつに順番抜かしされたんでムカついてここに来たんだよ」
「いやそれ嘘だろ、じゃあなんで俺の頼んだタン塩食べてるんだよ」
「はっ、しまった」
「いや、しまったじゃねぇよ、なんなんだよあんたら。ちょっと店員さーん、なんか変な人たちが」
オヤジは店員に助けを求めた。
しかし店員は忙しそうにしていて「少々お待ちくださーい」と言ったっきり全然オヤジの方には来てくれなかった。
「まぁまぁ、一人で焼肉ってのも寂しくないですか? せっかくですし私たちと一緒に楽しく食べましょうよ」
白い方がそうやってオヤジを説得しようとした。
「冗談じゃない、俺は一人で焼肉が楽しみたいんだ」
「またまたぁ、こんなかわいい女の子たちと食卓を囲めるなんて、嬉しいくせに」
黒い方はそうやってオヤジの頼んだタン塩をオヤジの皿に入れながら、にたにたと笑った。
悔しいことに、それは少し当たっていた。なんていったって白い方も黒い方も、言動にはかなり非社会的なところはあったが、容姿は非常に整っていたからである。
白い方はふわふわして可愛い感じが、黒い方はさっぱりしていてクールな感じが対照的な美人たちだった。
「店員さーん、カルピスソーダ2つとウーロン茶、サンチュと大根サラダ追加でー」
白い方が大声で言うと店員は「はーい!」と遠くで答えた。
黒は「ちょーっと、なんでそんなさっぱりしたものばっかり頼むんだよ」と怒っていたが、白は「最初に野菜食べとかないと脂肪が身体につきやすいって言いますよ」と涼しげな顔で返していた。
オヤジの注文はなかなか通らないのに、店員はすぐにサラダと飲み物を持ってきた。
「まぁここで出会ったのも何かの縁、乾杯しましょう」
白い方に促されて、おやじはため息をついた。2人のペースについていけず、ついに2人を追い出すことを諦めたのだった。
「おい、なんでウーロン茶なんだ? 俺の飲んでいたビールは?」
「小粋な計らいってやつですよ。ウーロン茶には高血圧を予防する効果もあるんですよ~。ささ、ぐぐいと」
白はにこやかな顔で健康番組のようなことを言う。
「なにが『ぐぐいと』だよ、余計なお世話だ。本当に余計なお世話だ」
「えへへ、ありがとうございます」
「……」
オヤジは怒りを抑えていた。もしここで怒りを爆発させでもしたら、焼き肉店はおろか焼肉を食べに来ているそこの家族連れの客まで不快な気分にさせてしまうではないか。
家族連れの客の小さい女の子の姿を見てぐっと下唇を噛んで、怒りの波が収まるのをまった。
「おじさんって家族いんの?」
黒い方が訊いてきた。
「そんなことあんたらには関係ないだろ」
「ふふん、家族がいたらこんなとこに一人で来るわきゃねぇか」
「いる。あんたらと同じ年ごろの娘がな」
黒は意外そうな顔をした。
「地方の大学で下宿してんだよ」
「奥さんは?」
「去年の暮れに病気で逝っちまった」
オヤジはこの話をするのが嫌だった。なぜならば、誰しもこの話になるとオヤジを気の毒そうな目で見たからだ。
その度になぜ俺が不憫な目で見られないといけないんだと矛先の無い怒りを感じなければいけなかったからだ。
「あーそうか、そりゃ気の毒だな」
が、黒は言葉とは裏腹に一切気の毒そうな表情を見せずに八重歯をのぞかせて最後のタン塩を頬張った。
白も同じように、別に何事もなかったようにカルピスソーダを飲んでいた。
変わった二人だ。オヤジはそう改めて思った。
「はーい、鳥軟骨ですよー」
白はいつの間にか注文し、さらにいつのまにか焼いていた鳥軟骨をオヤジの皿に入れた。
ついでに大根サラダも山盛りになっていた。
「タレよりレモン汁の方が美味しいんですよこれ」
と言って勝手にオヤジのタレ皿にレモン汁を注いだ。
「おい、いい加減にしろ。俺はカルビとかロースが食べたいんだ」
オヤジが注文していたそれらは、さっきから黒い方ばかりがガツガツと食べていた。
「俺が言うのもなんだが、もうちょっと良く焼いた方がいいぞ」
黒はまだ肉が赤い部分も残っているというのに、すごい速さで肉をかっさらっていた。
「あたしはレアな方が好きなの」
忠告をよそに次々と肉を取られてしまってオヤジが食べることができない。
食べることができるのは白がホイホイ皿に放り込んでくる鳥軟骨やササミ、サラダにキムチ。時たま黒い方がお情けのようによこしてくるカルビをレモン汁につけて食べるしかなかった。
白のヘルシー攻撃と黒の肉ブロックで、一向に自分のペースで焼肉を楽しむことができなくなったオヤジは、ついに。
「俺はもう帰る」
と席を立った。
「えーもう帰っちゃうんですか?」
「野菜と鳥軟骨で腹が膨れちまったからな。たまらなく楽しい焼肉パーティだった」
オヤジは精一杯皮肉を言った。
2人をテーブルに残したまま支払いを済ませて店を出ると、外は雪がちらついていた。
人気の少ない商店街は薄っすらと雪が積もってきていた。
はぁと白い色のため息をついた。
誰もいないであろう我が家に向かって歩き出すと、後ろから「おーい」「待ってくださーい」という声が聞こえた。
振り返るとさっきの2人がコートを着てやってきた。コートの色も白と黒で、まるで天使と悪魔みたいだった。2人はオヤジの後をついてきた。
「なんなんだあんたら、本当に」
「いやだって、お金払ってないですよ、私たち」
「もういいよ」
最近は変な若者が増えたものだ。結局二人にいいように肉を食べられ、金を払わされてしまうとは。オヤジは怒りを通り越して、もう疲れてきていた。
「あのお店、よく行くんですか?」
「……ああ、そうだよ。あの店、焼肉[赤とんぼ]は娘が小さい頃から、何か祝い事があると決まってあそこに行ったもんだ。自分の誕生日は毎年のように焼肉を食べたし、娘の合格祝いもあそこだった」
白と黒はオヤジの左と右に並んで歩いた。
「しかし一人で行ったことは無かった。今日も行く前までは、大好きな焼肉を食べに行くのだから、一緒に食べる人間がいようがいまいが味は同じだと高をくくっていた。……だがいざテーブルに座ると、そういえばあそこのテーブルに座った時は、娘もあんなぐらいの年頃だったかなと家族連れの客を見て思ったり、去年はあっちの席で誕生日を祝ってもらったっけ。と、ことあるごとに思い出が蘇ってしまったよ」
おやじはゆっくりとした歩みを止めることなく話した。
「一人で食べる焼き肉が、あんなにも寂しいものだとは知らなかった。まぁ、だから、あんたらが現われたことに少し感謝してた部分もあるんだ。だから、金はいいよ」
しばらく白と黒は何も言わなかった。
ただ、オヤジの側を一緒に歩いていた。
「あのぅ、これだけでも」
と、白は個包装のビスケットをオヤジに渡した。
「ああ、これか。そういえば忘れてたな」
あそこの焼肉店、なぜか清算の時にガムとか飴じゃなくてビスケットを渡すんだよな。
オヤジがビスケットを受け取ると同時に「あれ? お父さん?」という声が聞こえた。
見ると照明の眩しいコンビニから出てくる娘の姿があった。
「あれ、なんでこんなとこにいるんだ」
「なんでって、今日はお父さんの誕生日でしょ? 大学も冬休みだし、はるばる帰ってきたの」
と言った。しばらくぶりに見る娘は、前に会った時よりも少ししっかりしたように見えた。
「お父さんこそ何してたの? まさか一人で焼き肉? なわけないよね」
「いや、そのつもりだったんだが、こいつらのせいでそうもいかなくなってな」
「こいつらって?」
「え?」
オヤジは左右を見たが、既に誰もいなかった。
振り返っても、薄っすら積もった雪の上には自分の足跡しか残っていなかった。
「そんなばかな」
きつねにつままれた気分だった。
「ちょっとお父さん、大丈夫?」
「あ、いや、大丈夫だ」
そう言ってからオヤジは自分の手の中にあるビスケットを見た。
「……いや、ちょっと聞いてくれないか。実は……」
オヤジは家に帰りながら今までのことを話した。
娘はふんふんと相槌をうちながらオヤジの話を真剣に聞いた。
「んー。もしかしたら、あれじゃない? 天国のお母さんに頼まれて天使たちがお父さんを救いにきた的な?」
「あいつらがか? 悪魔みたいなのもいたぞ?」
「天使と仲良しの悪魔だったんじゃない? まぁわかんないけど。でもだとしたら、もし今日焼肉をいっぱい食べてたらお父さん死んじゃってたのかもよ」
そう言われると、ぞくりと寒気がした。
「まぁそういえば健康診断の結果はあまり良くなかったな」
「ええ? そんなので焼肉行こうとしてたの? もう、ちゃんとしてよね」
母親と同じ口調で説教してくる娘に、オヤジは苦笑してしまう。
「来年の誕生日はちゃんと晩御飯までに帰ってくるから、その時の健康診断がよかったらまた一緒に赤とんぼ行こうよ」
「ああ、もちろん。頑張るよ」
「当たり前でしょー? お父さんが死んじゃったら誰が私の学費払ってくれるのよ」
「それはまぁ、出世払いで自分が払うんだな」
「なにそれ、初耳なんだけど!」
オヤジは笑いながら、とりあえずジョギングでも頑張ってみるかと、思ってみたのだった。
使った単語:天使と悪魔 カルピスソーダ 粋な計らい 赤とんぼ ビスケット
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