第6話 深渕真由子の体質

 思わずその後ろ姿に見惚れていれば、トレーに置かれた皿の音で我に返った。


「えっと店長のお知り合いの方ですか?」

「彼女は真白ましろ黒江くろえちゃんといってね。喫茶『さちあれ』の創業以来、ずっと懇意にしてもらってる常連さんの一人だよ」


 それは確かにすごいお客さんだ。

 少なくとも看板の募集チラシを見て公募した真由子に比べれば、この店との絆はずっと深いに違いない。


「ちなみに彼女とは親の代からの付き合いでね。黒江ちゃんには昔からずいぶんと助けてもらっているのさ」

「あの、いいんですか? もうすぐ閉店ですけど」

「ああそれなら大丈夫。真由子ちゃんはいつもお昼ごろに上がってしまうから知らないと思うけど、彼女はいつもああして閉店間直にやって来るんだよ」


 店長の細められた視線がゆっくりと窓際に座る黒江の方に注がれる。

 この視線はどこか身に覚えがあるが何だっただろうか。

 思い出そうとするけれど思い出せない。それどころか訳もわからず背中が小さく戦慄いたような感じがした。


 なに、この気持ち――。


 すると手元に漂わせたまるで内緒話でも楽しむかのように店長の唇がゆっくりと持ち上がり、その右手が店長の口元を覆い隠した。 


「これは内緒だけど彼女も真由子ちゃんと同じちょっとした訳アリの子なんだ」


 訳アリ?

 堪らず首を傾げ、黒江と呼ばれる女性を見る。


 静かに文庫本に視線を落とす二十代の女性の姿は、真由子にはなんだかどこか一枚の絵画を眺めているような、どこか人間離れしている、――そんな感覚に襲われた。


「年寄りのお節介かもしれないけど、黒江ちゃんにも喫茶『さちあれ』の新しい仲間を紹介したいと思っているんだ。どうかな?」

「えっと……仲間、ですか?」

「そうさ仲間だよ。真由子ちゃんはもう喫茶『さちあれ』無くてはならない存在さ。それこそ、君の先輩である東野君や九条さんのようにね」


 こんな状態でなければそれこそ、うれしさで心がどうにかなっていただろう。

 若干、頬が熱くなり慌てて視線を逸らす自分がいた。

 

「そう、ですか。……わたしなんかでよければ、その。別に、構いませんけど」


 若干照れくさくなり語尾がドンドン小さくなるが、店長はそれを了承と取ったらしい。

 大きな温もりを持った右手が静かに真由子の肩に添えられた。


「そうかやってくれるかい。それじゃあよろしく頼むよ」


 そう言って店長から出来立てのサンドイッチと珈琲の載ったトレーを受け取り、小さく喉を鳴らす。

 途中、一部始終を見ていた神無からにやついた笑みが飛んでくるが今は無視する。


 ただでさえ人に関わるのが得意でないのだ。

 恩人の、それこそ喫茶『さちあれ』の従業員として受け入れてもらっておいて、ここで店長の期待に応えられないようじゃ働かせてもらっている意味すらなくなる。


 意を決して慎重に歩み寄り読書に集中する黒髪の女性の前に立てば、真由子は失礼にならないように最大限の敬語を意識して恐る恐る声を掛けた。


「あの、お待たせいたしました。ご注文の卵サンドとコーヒーになります」

「……ああ、ありがとう。そこに置いておいてくれないか」


 男っぽいサバサバした口調に鈴を鳴らすような声に思わず驚くが、眼すら合わせてもらえなかった。

 素気ない態度はどことなくクラスの男子を想起させるが、これは必要以上に他人に関わりたくないというオーラの表れだろうか。

 思わず、その場から逃げ出したくなるほど真由子の足はすくんでいた。


「前、失礼しますね」


 言葉の心地なさを自覚しつつ、店長特製タマゴサンドを女性の前に配膳する。

 この瞬間はいつも、緊張する。

 すると、一瞬だけ持ち上がった黒い視線が真由子の心を確実にとらえた。


 まるでなにか心の奥底を覗かれているようで、不意に不気味な不安が胸の内側から押し寄せてくる。その視線は背後の奥にあるどこかを見つめているようだった。


 まずい――、このままでは

 

 そう思ったのも束の間。

 直感は予感に変わり、その予感はどうやら的中したらしい。

 珈琲を配膳する際に一瞬だけ触れた指先が、無意識に目の前の女性の過去を暴き立てた。

 

 暗闇。一人。男の人。周りを囲む黒い影。見慣れぬ化物。煌めく宝石。誰かの笑顔――そうして浮かび上がった映像が途切れ、 


「うっ――」


 想像以上に強烈なイメージが眼球に叩き込まれた。

 待ち針を突き刺すような鋭い熱が真由子の眼球に襲い掛かる。

 不快感でよろめく右手が宙を彷徨い丸テーブルにたどり着けば、よろめく視界の仲一瞬だけ驚きの表情で真由子を見る黒髪の女性と目が合った。


 その唇が何か言葉を形作ったようだったけど、今の真由子にはわからない。

 我ながらもう駄目だと思った。

 案の定傾いた身体は修正不可能なほど力が抜けてしまっているし、思考もあまりおぼつかない。


「あっ――」

「真由子!?」


 ガシャンと耳障りな配膳の丸盆が輪を描くようにして不規則にうめき声をあげたところで、真由子の曖昧な意識は覚醒した。


 倒れ伏すように力が抜けた体が自然と黒髪の女性の方にもたれ掛かっている。

 そう認識した途端、真由子の血液が急激に冷めていくのを感じた。


 また、やってしまった――。


 人と距離を縮めるのは怖くないのに、余計なものを覗いてしまうかもしれないという恐怖が頭を過ぎって仕方がなかった。

 でも接客業なら人と接触するのは当たり前だし、この店で働くと覚悟した時から十分注意していた。

 だから最近は覗かないように気を付けていたのに、よりにもよって今日やらかすなんて、


「……大丈夫かい?」

「あ、はい。すみません」


 心のなかで荒れ狂うアラートを必死に宥め、造り笑いで乗り切ろうとするが、先方の女性は先ほどと同じようにわたしを見つめるばかりで、一言もはなそうとしない。


 「あの――」や「その――」で乗り切ろうとしても取り付く島がない。


 助けを求めるように一度だけ、奥のテーブル席に腰かける神無に視線を投げかければ、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべた友人が親指を立てて、喧嘩を売ってきた。

 あの野郎、完全に楽しんでやがる。


 店長に簡単な挨拶でもいいから頑張って、と送り出されたのに結果がこのざまとはなんとも情けない。

 しどろもどろに口を動かしていれば、やがて真由子を見つめていた黒江と呼ばれる女性の方から重いため息が聞こえてきた。


「ここの接客も地に落ちたものだな。客に寄り掛かって詫びの一つもないとは」

「なっ――!?」

「それとも従業員の働かせすぎかな? どちらにせよ店の質も落ちたものだよ」


 カッと羞恥心で顔が赤くなり、膝が震えだす。

 確かに倒れ込んだのはわたしだし、お客さんに迷惑をかけたのは言い逃れができない事実だ。しかしそれを真由子だけでなく、あまつさえ店を馬鹿にされるのは許せなかった。


「どうしたのかな? 君じゃ話にならない、あの男を呼んできたまえ」

 

 冷ややかな視線が圧力となって真由子にのしかかってくる。

 それでも何も言えなくなる自分が悔しくて、唇を噛めば楽しげない傷買いが正面から聞こえてくる。

 頭の中がぐちゃぐちゃになりかけ思わずその場から立ち去ろうと踵を返せば、うなじに逆巻くような気配が襲いかかった。


 そして反射的に小さく背筋を震わせ振り返れば、クスクスと弾ませた笑い声を押し殺すような声が飛んできた。


「どうやらやりすぎたみたいだね。どうか少しまってくれないかいお嬢ちゃん」

「はぁ?」


 そこには先ほどまでの凍り付く印象とは真逆の柔らかく妖艶な笑みを浮かべる女性の姿があった。

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