第5話 魔女との邂逅

 立ち止まり、小さく息をつく。

 気が付けばいつの間にか外に出ていたらしい。


「もうここまでくれば大丈夫かな」


 観光客と営業中のサラリーマンが行き交う新宿駅前は相変わらず規則正しい列を作って、太陽の光に炙られているところだった。

 真夏なのにすごく寒い。びっしょりと濡れた背中が気持ち悪くて顔をしかめれば、背後で顔を青くする神無が過呼吸気味に肩を上下させているところだった。 


 慌てて大丈夫かと問いかければ、場を和ませるように「へーきへーき」と無理な笑顔が返ってくる。しかし、あんな化物に日夜つけられて平気なわけがない。


 いや、そもそもあれがほんとうに神無をつけ狙っていた存在かすら真由子にはわからないのだ。

 もしかしたら全然別の化物が神無をつけ狙っていた可能性だってある。

 未知の存在に監視される恐怖は真由子が一番よく理解している。

 どれほど夜が心細かったか想像に難くない。


 力不足は承知の上だ。それでもいまできることをしなくては。


「神無!! とにかく、怖いと思うけどアイツらには関わらないようにして。わたしのほうでも何とかしてみるから」

「なんとかって本当大丈夫なの?」

「放課後でのわたしの活躍を覚えているでしょ。とりあえず過剰な反応をしなければ、あいつらは関わってこないから」


 目の前で怯えている友人に、信じてと言うしかなかない自分が恨めしい。


「ははっ、やっぱり真由子に相談して正解だったかも。真由子はえらいよね、もう一人立ちの準備を始めてるんだから。わたしなんて誰かに頼ってばかりで、ホント情けない」

「そんなことないよ」


 父との疎遠の理由は、いたってシンプルだ。

 とにかくわたしはあの家に居たくないのだ。

 あの得体のしれないバケモノが待つ家に。


 だからこうして日々の青春を惜しんでバイトに勤しみ、金を貯めている。

 なにも立派な理由なんてない。

 

 ただあの不気味な化物たちと生活したくないから逃げたいだけだ。


 すると黒い蝶が一瞬、目の前を通り過ぎたような錯覚に襲われた。

 鱗粉がほのかに香るような感覚。

 未だ感じたことがないのに、目が痛むほどの情報が眼球に突き刺さったような気がした。


「ああ、すまない。よそ見をしていたようだ」

「こちらこそすみません」


 どうやらボーっとしすぎて回りが見えていなかったらしい。

 反射的に頭を下げれば、一瞬だけその黒いワンピースを着た女性と目が合い、すぐに離れて消えていった。


「ふぇー、あんな美人だったね。上から下まで真っ黒に決めてまるで女優さんみたい」


 呆気にとられたように興奮気味で鼻息を荒げる神無の言葉に小さく頷けば、その黒い背中がドンドンと小さく見えなくなっていく。


「あれこそがまさに魔女って感じかな」

「漫画の見過ぎ。そもそもお伽噺じゃないんだからそんな存在いるわけないでしょ」

 

 そう――、この日までは、本当にそう思っていたのだ。


※※※


 結局、解決策など思い浮かばず二日が過ぎた。

 いまのところ、神無の方から異常の電話はかかってこないが定期的な連絡はこまめにとるよう約束させた。

 本人は至って大袈裟なそぶりを見せたが、問題が起こってからでは遅いのだ。

 涙ながらに説得すると、ようやく納得してくれた。


「まったく、真由子は心配性なんだから」


 それでもここ二日だけでも彼女が店に来店する頻度が明らかに増えたのは間違いない。

 口ではああ言っているがやはり不安は隠せないらしい。

 当然だ。あんな得体のしれない化物、真由子でもどうしようもない。


 休憩の合間を縫って部活動の様子を見に行ったり、逆に部活帰りに店に寄ったりとお互い極力いつもの距離を保とうとするが、やはりいつも通りとはいかなかった。


 その証拠に彼女の口から出る話題といえばどれも心霊関係のものばかりで、最近投稿された『例の画像』が突如消えただの。サイトを調べてみたら、本当に魔女はいるのかもしれないなど、自ら恐怖を冗談交じりに盛り上げては、神無らしくない笑みを浮かべる姿を見るのは正直、心が苦しかった。


 きっと恐ろしさを吐き出す場がないと落ち着けないのかもしれない。

 幸いにもこの喫茶店近辺にそれらしい影は見当たらないと伝えると、「そっか――」と神無の怯えた雰囲気が幾分か和らいでいくのを感じた。


 友人として早々に解決してあげたいが、自分にそんな力がないことは真由子自身が一番理解している。

 いつも見ているだけしかできない体質がこの時ばかりはひどく恨めしく感じたほどだ。


「それじゃあ今日も終わるまで待ってるよ。せいぜい仕事に励むがよい」

「言われなくても。って言ってももうすぐ終わるんだけどね」


 そう言って時計を見れば、短針が午後二時を差していた。

 まばらに入った客足が止まり、店内に流れるジャズのBGMに耳を傾けていたゆったりと至福の時間を楽しんでいたお客さんが、一人また一人と満足げな顔で帰っていく。


「ありがとうございましたー」


 鈴の音がカランコロンと鳴り響き、男性客が手を振って去っていくのを見届け、真由子は次のお客さんの会計を手早く精細し終える。


 ここ喫茶『さちあれ』は基本的に朝日七時に開店し、一度午後二時三十分で店を閉めることとなっている。

 理由としては夕方六時にはカジュアルな喫茶バとして変身するため、その仕込みの時間が必要だからだ。

 夜はお酒を扱う仕事のため未成年の真由子はそこまで手伝うことはできないが、常連のお客さんはだいたいこの時間帯になると店長を気づかってか、早めに退散していくのが常であった。


 もちろんバーとなった喫茶『さちあれ』も大盛況で、ほとんどが店長の作るコースを目当てに若い女性客が訪れるほどだ。


 店長の謎がますます深まるばかりだが、あの卵サンド一つでもその腕は十分証明されているため納得である。


 この日もまた同様で、壁に立掛けれられた古時計が午後二時を告げると、残ったお客さんが皆同様に立ち上がって帰り支度を始める頃だった。


「ありがとうございました」

「店長さんによろしくね、真由子ちゃん」

「はい、またのお越しをよろしくお願いいたします」


 教えられた決まり文句で丁寧に頭を下げると、最後のお客さんを見送って一息つく。


 時計を見れば、あと十五分で店じまいか。

 店内の清掃と色々やることが残っているがこれなら早く帰れそうだ。

 そうしてカウンターでレジの精細を終えた真由子がおもむろにエプロンを紐解いて、時間を確認していると背後から店長の声が掛かった。


「真由子ちゃん。もうすぐ上がりだよね」

「ひゃっ――!?」


 いきなりで驚いた。まさか後ろにいるとは。

 申し訳なさそうに顔をしかめた店長が、申し訳なさそうに笑みを浮かべて立っていた。


「驚かせてしまったみたいだね。それでいきなりで申し訳ないのだけど、この後何か予定はあるのかな?」

「予定は――、神無と一緒に帰るだけですけど、それがなにか?」

「いやなに。大したことじゃないんだが真由子ちゃんに少しだけ頼みたいことがあってね。……いいかな?」

「頼みたいことですか?」


 思わず眉をひそめて首を傾げれば、店長の緩やかな首肯が返ってきた。

 このあと神無を家に送り届けたあと、すぐにお守りの制作に取り掛かりたかった真由子としては今日の残業だけはなんとしても勘弁願いたい。

 しかしこれも仕事だ。

 わたし一人のわがままでどうにかなるような問題ではないとわかっているだけに、胸の内から湧きあがる焦燥感をぐっとこらえるしかない。


「えっと――、それって残業ってことでいいんですか?」

「あーいや、そうじゃなくてね。このコーヒーとサンドイッチを黒江さんに運んでもらいたいんだ」

「黒江さん? 最期のお客さんはさっき帰られたはずですけど――」


 そう言いかけて店内に視線を巡らせれば、入口近くのテーブル席にその人はいた。


 それはパーティードレスのような真っ黒なワンピースに身を包み、夜のような艶のある髪を背中に流した美女だった。後ろ姿で、しかも座っていて体型はわからないが同性の真由子からしても美しいと思えるほど細くしなやかな腰と肩。刺繍の隙間から覗く白い肌はシミ一つないように窺えた。


 でも、ここには真由子と店長。それにわたしの帰りを待つ神無しかいないはず。

 いつの間に来店していたんだ。

 猜疑心はどこか胸の中で燻ぶり、言いようのない感情が荒波となって騒ぎ立てる。


 それが自分の内側から零れ出たものなのか、別の『なにか』からもたらされた者なのかはわからない。


 それでも西日に傾く太陽に反射する黒髪はどこか神々しくて、見ていて引き寄せられる自分がいるのは確かだった。

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