「今日は、海にでも行くか…?」


一緒の生活にいくらか慣れたと思われてきたある朝、浅葱あさぎが急にそんなことを言い出した。今日は砕氷さいひとしての仕事は休みである。


「はい、行きます」


と、決してはしゃぐ訳ではないがどこか嬉しそうにひめは声を上げた。こうやって主人と出掛けたりするのもメイトギアの役目だったからだ。


家を出て、凍った道を三十分ほど歩くと、そこには地底の空間とは思えないほどの大きさの<水たまり>があった。地底湖として見ても大きい。なるほどこれは<海>にも見える。


しかし、海だとしたらあまりにも凪いだ海だと言えるかもしれない。なにしろほとんど波がないのだから。


『そうか。地底の閉ざされた空間だから風もほとんどないんですね』


そういうことだった。風が吹かないから波もたたない。だから、本来の海を知る人間が見れば不気味にすら感じる<海>だっただろう。


それに、まったく変化がないから見ていてもどう捉えればいいのかがよく分からない。


波がないので護岸施設のようなものもほとんどなく、橋脚の一部だったと思しき構造物がぽつんと残され、そのすぐ下の水中には、かつてこの<地底の海>の上に橋が架かっていたのだろうかと推測できる構造物が沈んでいるのが見える以外には、展望台のようなものすら見当たらない。


『これは遊びに来るには辛いかもしれません』


などとも思ってしまった。


過冷却されて水温はマイナス。素足など入れれば肌が弾けて裂けそうな錯覚を覚えるに違いない。それなのに、岸辺からは釣り糸を垂れている人間が何人かいた。


それらの方へ歩いていく浅葱あさぎの後にひめも従う。


「釣れるか…?」


毛足の長いボアに覆われたフードを持つ分厚いコートに全身が包まれ、ぱっと見は性別すら判然としないその人物に浅葱あさぎはためらうことなく声をかける。実は、フードに描かれた模様で<誰か>というのは分かるからだ。その人物のフードには、とがった口を持つ緑色の魚のマークが描かれていた。


「いや、ぜんぜんだ…」


声を掛けられた人物は振り返ることもなく短くそう応えた。すると、数メートル先で同じように釣り糸を垂らしていた人物も『こっちもだ』と言わんばかりに無言で頷いていた。


「漁師の健軍けんぐんだ…」


浅葱あさぎに紹介され、少しだけひめの方を振り向き、健軍けんぐんと呼ばれた人物は、ロクに年齢も分からない顔をちらりと見せただけでまた正面に向いてしまった。


愛想が悪いのではない。ここではこれが普通なのだ。


また、この世界では大型水槽での養殖が普通で、しかもそこで養殖される魚はもう、水槽の中だけで生まれ収穫されていくので、この地底の海で育った魚ですらない。


そして、健軍けんぐんらが行っているのは<趣味としての釣り>などではなく、れっきとした仕事としての<漁>だった。


ただし、滅多に釣果はない。この過酷な環境に適応した魚の数自体も少ないし、寒すぎて活動も活発ではない。


だから、天然の魚は超高級品なのだった。


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