第33話 神事の誘い

 2019年(平成31年)4月16日

 ~東京~


「はっ、はっ、はっ。」


 肌寒い朝の空気を切るような規則的な息遣いが、眠りから覚めやらない街にひっそりと響く。

 翔は、朝もやの目白通りを左手にカテドラル大聖堂を見ながら、椿山荘の前を通り抜けた。

 音羽通りを北上し、講談社の前を通り過ぎると、護国寺が現れる。

 護国寺の境内に沿って走る音羽池袋線に移り、なだらかな登り坂を上る途中で左に折れると雑司ヶ谷霊園だ。

 夏目漱石の小説<こゝろ>の舞台であり、また、本人も眠っているこの霊園は、都心の一等地にあって、厳粛な空気を醸している。

 その中の大きい通りを走り抜け、都電荒川線の路面電車沿いの道を鬼子母神前方面に更に走り、大鳥神社の角を右折し、弦巻通りをゆっくり流してゴールの<法明寺>に着いた。

 約5km強の道のりを30分足らずで走っても、翔は汗一つ掻いていない。


「<霊水>は身体機能を強化する…か。」


 確かにそのようだ。

 翔は手のひらを上に向け、意識を集中する。


「やっぱりダメか。」


 突っ立っていると、猫が寄って来たので休憩する。

 山門の階段に腰かけ、参道の方を見ると、朝日を浴びてキラキラと輝く新緑が、翔の悩みを知った上でそれを笑い飛ばしてくれている様に感じた。


 膝の上に乗せていた猫が、何かに気づいて参道の方にトコトコと走っていく。

 猫に出迎えられるように、薫が朝の木漏れ日を浴びながらこちらに向かっていた。

 足元にじゃれつく猫を蹴らないように、少し歩幅を緩めゆっくりと歩いてくる。


「おはようございます。」

「おはようございます。」


 挨拶を交わすと、薫は足元の猫を抱えあげて、翔に渡して隣に腰かけた。

 綺麗な横顔だったが、表情にはがある。


「何かありました?」


 薫はあいまいな笑みを返して、無言で石畳を見つめる。


「そういう時は無理してでも上向いた方がいいですよ!」


 薫が目を丸くして翔の方を振り向く。


「まず一つ、朝日には、人を元気にする波長が含まれているんです。」

「はい。」


「次に、新緑にも、人を元気にする成分が含まれているんです。」

「はい。」


 答えながら、薫はクスッと笑った。


「そして、最後にコイツ。」


 翔が猫を薫の膝の上に乗せると、朝日を浴びた新緑に薫の笑顔が映えた。

 薫は笑顔を浮かべたまま、黙って遠くを見ていたが、一つ大きく息を吐くと翔に尋ねる。


「ショウさんは、どうしてそういう風に考えられるんですか?」


「どうして?」


「あ、ほら、この前言ってたじゃないですか<失った>って、それなのに、どうしてそういう風に前を向けるのかなって…あ、ごめんなさい、失礼ですよね。」


「いや、僕だってまだ前を向いてる途中だから、偉そうな事は言えないんです。

 ただ、僕には信頼できる仲間が居て支えてくれるから…。」


「信頼できる仲間…か。」


 そういう風に言える翔が羨ましかった。

 自分が仲間と呼んできた者達は、こちらが弱みを見せればすぐに噛み殺そうとするような奴らばっかりだった…。


「私には…居ないから。」


 薫は寂しげにポツリと呟いた。


「何言ってるんですか!!」


 翔が真剣な顔で肩に手を置いて言葉を強めた。


「僕はそうだと思ってますよ!」

「は、はい?」

「それにコイツも。」


 薫の膝の上では、猫がきょとんとした表情で薫を見上げている。

 深刻になり過ぎない様にする翔の心遣いが嬉しくて、薫は元気よく返事をした。


「はい!」

「にゃぁ~?」


 驚いた猫が間抜けな声を上げ、二人は声を出して笑った。




 ~東京・南光院邸~


「九条。」


 地を這う様な低い声が響いてくる。


「はい。」


 九条晃は、伏したままで答えた。


「あ奴らに動きはないか。」

「まだのようです。」

「電話では4月24日と言うておったのだな?」

「はい、確かに。」


 南光院典明は、顎を上げたまま目を閉じている。


「宮司の方はどうなっておる? 居所は掴めたのか?」

「は、それが一向に…。」

「そうか…。

「申し訳ありません、みかど様。」

「天下の一大事、そう簡単には尻尾は掴ませんか…。」


 ふんっと鼻を鳴らして、南光院典明が忌々しげに呟く。


「なんとしても探し出せ! あ奴らより先にだ。」

「はっ!」


 九条晃は頭を下げて畏まった。


「ふん…、あ奴らにちょっかいを出してみてもいいかもしれぬな。」

「ちょっかい…ですか?」

「そう言うな、九条よ、日本を統治する事になれば、このような遊びに興じる事もできなくなるのだ。」


 南光院典明は、バツが悪そうに言い訳めいた事を口走る。

 九条晃は空気を変えようと、別の話題に切り替えた。


「して、陛下のご加減はいかがでしょうか?」

「おじ殿か…。」


 南光院典明は、革張りのハイバックのチェアに背中を深くもたれかけ、遠くを見る様な視線を上に向けた。


「近頃はよく夢を見ておられるようだ。」


 南光院典明のおじ・影の今上天皇陛下は、末期がんに侵されて南光院記念病院に入院している。

 最近では痛み止めの影響で眠っていることが多く、短い起床時間の間はせん妄に侵されて、往時の見る影もない。


「ああなってしまわれては、もう話を聞き出す術もない。

 これでも儂が子どもの頃は、よくおとぎ話などを聞かせてくれたものだ…。

 せめて、お命のあるうちは、影の天皇としての責務を全うさせあそばす様計らうのは、儂の最後の慈悲だ。」


 若き日の南光院典明が、影の今上天皇陛下に特に目を掛けられていたのは、九条晃も効いたことがある。

 恐らくはその薫陶の中で南朝の本当の歴史を知り、北朝系の表の皇室に対する思いを増大させていったのだろう。


「時に九条よ。」

「はい。」

「娘の方はどうなっておる?」

「は、それが未だに手こずっておりまして…。」

「紗織もああ見えて頑固だからのう。」


 南光院典明は、一瞬頬に浮かんだ笑みを消すと、九条晃に告げた。


「いざ進退窮まれば、紗織を使う日が来るやもしれん、その時の為に手なずけておくのだ。」

「はっ!」


 踵を返して部屋から立ち去る九条晃の背中に、南光院典明のつぶやきが聞こえて来た。


「できれば、そうはならんで欲しいがのう。」


 南光院典明の淀んだ暗い光を発する目からは、その真意はうかがい知れない。



 ~東京・池袋~


 <自由学園・明日館>は、アメリカの建築家F・L・ライトの傑作だ。

 緑色の低い屋根が左右対称に広がり、水平線を強調したその外観は、素朴でありながら力強さを感じさせる。

 1950年代頃までは校舎として使っていたが、現在は結婚式場や卒業生たちの様々な行事に使用されている。

 国から重要文化財に指定されており、使用しながら保存するという取り組みのモデルケースとしても、その価値は高い。


 翔とダニエル・レオナルド・崇継の四人は、夕食の後、半次郎のお使いでロフトで買い物を済ませると、散歩がてら<明日館>の前に来ていた。

 カクテルライトが緑の芝生を照らし、ライトアップされた低く伸びる緑の屋根が、どこまでも続く広がりを想起させ、まるで自然の一部のようにも思える。


「ちょっと入ってみよか?」


 ダニエルがいたずらっ子の様な事を言い出した。


「マズいですよ。」


 崇継が周りを見廻して制止する。


「ちょっとだけならよかやろ!」


 制止を無視して忍び込むダニエルに、三人はやれやれと言った感じで後に続く。


「やっぱ近くで見ると、余計綺麗かね。」

「タシカニ、ウツクシイ。」


 翔と崇継も、幾何学的な建具の装飾など、現代建築が削ぎ落としてしまった、作り手の情熱を伺わせる優美な意匠に見とれている。

 すると、どこからともなくベビーパウダーのような甘い香りが漂い、慌てて振り向くと芝生広場に異様な人影を発見した。

 浴衣を着た巨漢の男で、髷を結っている。

 匂って来たのは髷を結う時に使うびんつけ油の匂いだ。


「おいおい、スモウレスラーのおるバイ。」

「この辺に相撲部屋でもあるんですかね?」

「トランプも観にクルんダロ?」


 確かに、東京で開催される5月場所には、国賓としてアメリカ大統領が観戦に訪れると言う事で話題になっていた…だが。


「本物の相撲取りは、こんな時間に稽古なんかしない。」


 その男は四股を踏みながら、こちらの方を観察するように眺め、四股を踏むたびに揺れる地面は<明日館>の窓を震えさせた。


「敵と思うカ?」

「あぁ、間違いないだろ。」

「あん、スモウレスラー、力比べする気バイ。」


 190cmを超える巨漢のダニエルが腕まくりをして、相撲取りにゆっくりと歩み寄り、その横では崇継がジグ・ザウエルを構える。


「待て、奴は忍者かもしれん、で戦うな!」

「もう既にだ!」


 ゴウッ


 地鳴りのような音と共に、相撲取りとダニエル、崇継を載せた地面が盛り上がり、見る間に80cm程の高さになる。

 四角錐のてっぺんを切り取ったような形のそれは、まるで相撲の土俵だ。

 その土俵を囲うように、4辺に透明な帳が降りると、上空には立派な切妻の屋根まで浮かんでいる。

 ご丁寧に、屋根には紫の水引膜付きだ。



 相撲取りは蹲踞の姿勢のまま、動かない。


「ナ、ナンダ?」

「おい、大丈夫か?」


 透明な帳の外から声を掛ける翔とレオナルドに、ダニエルと崇継は不安そうな笑顔を返す。


である!」


 相撲取りは厳粛な響きで言い放つと、浴衣を脱ぎ捨てた。

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