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 が、ふりかえると、鼻先で戸をしめられた。

 錠をおろす音が無情にひびく。


(気のせいか)


 幻聴も聞こえるというものだ。

 好かれていないとは思っていたが、あそこまでハッキリ部下にバカにされるとは。なさけなさすぎて涙もでない。


 ワレスは一人、牢屋によこたわった。冷たい床の感触が心地よい。なぐられて、ほてった体。幼いころ、よく父になぐられたことを思いだした。


 あのころから、自分の人生は、少しでも好転しただろうか?

 けっきょく、同じではないのか?


 何も変わらない。

 得たものは何もない。


 もういやだ。

 なんだか疲れてしまった。生きていくことに。


 うとうとしていたワレスの耳に、遠くで悲鳴が聞こえた。反射的に起きあがる。すると、しばらくして足音が近づいてきた。


「ワレス隊長」

 押し殺した声は、ハシェドのものだ。


「ここだ」


 答えると、ハシェドがやってきた。手にトレーを持っている。


「差し入れを持ってきました」


 ハシェドは鉄格子のあいだから、パンと飲み物、スープなどの皿を入れてきた。ほんとによく気がつく。


「それと、これ」と、ぬらした布を手渡してくる。

「お顔をふいてください」


 暗い地下をてらす松明の明かり。

 ハシェドのアーモンド型の瞳が、まっすぐワレスを見つめている。

 ワレスは顔をそむけた。


「あの、隊長?」


 不覚としか言えない。

 涙のすべりおちるのが、自分でもわかる。


「ひどく痛みますか? 隊長」

「なんでもない。むこうを見てろ」


(これが、あたりまえの人間なんだな。傷ついてる者がいれば、迷わず手をさしのべる。それがあるべき人間の姿なんだ)


 ただ、ワレスはあまりにも幼いころから、他人の暴力にさらされてきた。そんなふうに優しくされることになれてない。


 ジェイムズも純粋に、ワレスが傷ついていたから、ケガして鳴いてるネコをひろうように、優しくしてくれたにすぎなかったのだろう。

 彼の無償の善意を、拡大解釈してしまった、ワレスのほうに非がある。


 今になって思う。

 ほんとのところは友情でさえなかったのかもしれないと。

 彼はワレスを哀れんだ。

 それだけのことだったのだ。


(もう……忘れよう。今日をかぎりに、ジェイムズのことは思わない。ジェイムズのおかげで、この何年か、ルーシサスのことを考えなくなっていた。きっと、ジェイムズのことも、すぐに過去の一ページになる)


 少なくとも、ジェイムズは死ななかった。それだけでも、ワレスの心の負担はずいぶん軽い。


 渡された布に顔をうずめて、ワレスは泣いた。


 このとき、ワレスの心のなかで、皇都の日々に真実、決別できた。このさき、どうなろうとも、砦で生きていくしかないのだと悟った。


 長いあいだ、声を殺して泣いた。

 どのくらいしてからか、おずおずと、ハシェドが声をかけてきた。


「隊長……? 大丈夫ですか?」


 ワレスは人前で涙をながしたことを恥じて、乱暴に顔をぬぐう。


「よく、ここへ入ってこれたな」


 つきはなすように言うと、ハシェドはホッとした。ワレスの嗚咽を聞いてないはずはないが、気づかなかったふりをしてくれた。


「牢番に袖の下を贈ったんです」

「あのカラクリ人形みたいな牢番にか?」

「ご存じなかったですか。あの牢番、甘いものに目がないんです。この前、隊長にもらった菓子を見せてやったら、かぶりついてきましたよ。飢えたオオカミがウサギにとびつくみたいに。さっき、悲鳴が聞こえたでしょう?」


「あれか。そんなこと、よく知ってるな」

「二年もいれば、いろいろと。おれもここに入ったことがありますしね」


「お前みたいな模範生が?」

「家族のことを侮辱ぶじょくされたので、上官をなぐってやりました。ブランディたちを悪くは言えません」


 これは、ブランディたちをかばってやってるのだろうか? でも、まあ……。


「おまえと話してると、少し落ちつく」

「おれが能天気だからでしょう」


 声をだして明るく笑ったあと、ハシェドは声をひそめた。


「でも、おどろきました。おれは隊長のこと、冷静なかただとばかり思ってたので。あんなふうに、とつぜん、火がついたようになられるなんて……」


 自分の心がかなり危うい均衡でなりたってることは、ワレスも知っている。


 いつも何かが不満で、いつも何かを叫びたいような。

 でも、それが、何を叫べばいいのかわからない。

 心の奥底で、はじけそうな何かをいつも抑圧している。


 だから、全身全霊で誰かにすがりつこうとして、そのたびに相手も自分も傷つけてしまうのだ。


 いつか、ワレスの心は壊れてしまうかもしれない。


「止めてくれ。おまえが。おれが変な行動を始めたら」

「隊長……」

「もう行け。見つかれば、おまえの立場も悪くなる」

「また来ます。ほしいものはありますか?」

「とくにない」


 と言ったあと、ワレスは考えた。


「そうだな。物はないが、調べてほしいことがある。前庭のバザーで絵を売っていた男がいたな。おまえも見たはずだから知ってるだろう。あいつ、まだ砦にいるのか?」

「あいつなら、だいたい文書室にいるようですが……でも、隊長。どうするつもりです? そりゃ、おれも、あの絵を描いたのは、あいつだと思います。が……」

「あんなものを二度と描かれては困る」


 ようやく、ワレスはいつもの自分をとりもどせた。

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