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 伯爵はワレスに遠慮している。


 ジョスリーヌが派手な浮気女だということは、社交界では有名だ。

 いつもダースでとりまきをひきつれ、気に入りの男たちとすごす別荘を持ち、貴公子の童貞を盗むのが趣味で。

 たえない華やかな醜聞。機知に富み、芸術の愛好家で、センスは抜群。何歳になっても少女のよう。


 彼女に愛されたいと願う男は、あとを絶たない。

 まわりにはいつも男がいた。

 彼女を敬愛する貴公子。

 そして、彼女がつれ歩くのに手ごろな、容姿の美しい男たちが。


 ワレスに彼女の恋人だったかと聞くことは、おまえはジゴロだったのかと聞くに等しい。


 身分の低い見目麗しい男が、彼女と懇意こんいだったということは、その美貌を売り物にしていたということだ。


 だから、伯爵は聞けない。

 聞きたいが、彼のつつしみが遠慮させている。


 なんという違いだろう?

 金をもらって貴婦人のベッドの相手をしていたワレスとは。


(悔しい)


 生まれながらの貴さの違いを、いやおうなしに見せつけられた。


 ワレスと伯爵の違いは、決して、ひな壇の高さの違いにあるのではない。その身内に宿る品性の高さが違うのだと、これほど、はっきり思い知らされることはない。

 それが、悔しい。


 おれにふさわしいのは、どぶのなかの腐った汚泥。

 はきだめの蛆。

 死神より毛嫌いされ、墓荒らしみたいに、いとわしがられ、八十すぎの淫売より、みにくい。


(いやだ。伯爵に見られたくない。あのけがれのない純粋な目で。おれのこの汚れきった姿を)


 このまま世界の果てで、消えてなくなってしまいたかった。


 せめて、今からでもいい。

 伯爵が聞いてくれたなら。

 そうしたら、その時点で、ワレスと彼は同じ高さに立てる。一人の女をめぐる恋敵という立場に。


 が、伯爵は最後まで品位を失わなかった。


「もうよいぞ。ワレス分隊長。さがってくれ」


 ワレスは敗北し、うちのめされて、広間をあとにした。


 広間を出るとすぐ、エミールがたずねてきた。


「ねえ、隊長。あのなかで一番長く砦にいたのは誰? かっこいい髭のおじさん、いたよね。あっ、伯爵じゃないよ。あの人のは笑っちゃう。かっこいいほうの髭は?」


 うるさい。興奮した声がかんにさわる。

 おまけに、さらにイヤなヤツが近づいてきた。


「豹ごときに遅れをとるとは、案外だな」


 ギデオン小隊長だ。

 いつものいやらしい薄笑いを浮かべている。ワレスをいたぶることに、至福の喜びを感じるらしい。


「徹夜明けでも髭も浮いてこない。まだまだ青いな」


 ぞッとする感触で、頰をなでられる。

 ワレスは怒りと羞恥で鳥肌立った。


(よくも部下が見ている前で)


 案の定、これを見て、ブランディがニヤニヤ笑っている。


 ワレスはギデオンの手を打ち払った。


「さわるな! 次は必ず、しとめる」

「強情なやつだ」


 ギデオンに背をむける。

 ワレスは兵舎に急いだ。


「ねえ、隊長」

 話しかけてくるエミールに、

「うるさい!」


 怒鳴ってしまったのは、やつあたりだ。

 エミールはしょんぼり、うなだれた。


「ごめんよ。おれがあのとき、あんたの足つかんじゃったから」

「…………」


 宿舎に帰ると、ハシェドが寝ずに待っていた。


「お疲れでしょう。隊長。あたたかくなるものをもらっておきました」


 湯気ゆげの立つカップをさしだす。


「キノロンか」

「リンナ茶では目が冴えると思って」


 ハシェドはわざわざ食堂から、これをもらってきて、ワレスの帰りを待っていた。自分だって朝まで見張りに立って、疲れているはずなのに。


「……ありがとう」


 がらにもなく、素直に言葉が出てきた。

 ハシェドはおどろき、それから、照れくさげに頭をかいた。


「あの、それじゃ、おれはさきに休みますから。おやすみなさい」

「おやすみ」


 ワレスがあいさつを返したので、ハシェドはさらに目を丸くする。(今まで、そんなことしたことはない)


 キノロン水はおいしかった。冷めないようにふたをして置いていたのだろう。キノロンの実の甘酸っぱさが、あたたかく体じゅうにひろがる。


 ハシェドはどうして、こんなに優しくできるんだろう?


 ハシェドだって、ユイラでは目立つブラゴールの血を受けて、イヤな目にもあってきただろうに。

 残酷な子どもたちのあざけりや、大人たちのよそよそしさ。よそよそしさに隠れた冷酷さ。暴力を受けたことだって、少なからずあったはずだ。


(それでも、おまえは人をいたわることを忘れないのだな)


 なんだか泣きたい気分だ。


 顔をあげると、同じように泣きそうな目をしたエミールが、ぽつんと立っている。


「半分、飲むか?」


 ワレスがカップをさしだすと、エミールは遠慮がちに手にとった。


「自分の失敗をいつまでも気に病むな。次の仕事にさしつかえる」

「うん」

「それを飲んだら眠れ」

「うん」


 今夜も見まわりだ。

 また命がけで神経をすりへらすのだ。


 配給の薄い寝具によこたわると、眠りはすぐに訪れた。

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