2—5
いつ、物陰から魔物がとびだしてきてもおかしくない。足もとがとつぜん、怪物のあぎとに変わってしまうことも、ありえなくはない。
現に今、前庭では不思議な人間消失が続いている。夜の見まわりちゅうに、いつのまにか消えてしまうのだ。
ワレスは神経をとがらせた。
たった二刻半で、一日のエネルギーを使いはたしてしまう。眠る大蛇のよこを、そろり、そろりと歩いていくような緊張感。
木々のあいだに明かりが見えてきた。
ワレスは手にした松明を、かるくよこにふる。それに応えて、むこうの明かりもゆれた。
第一小分隊、二組みのアブセスとクルウだ。近づくと、光のなかに二人の姿が見わけられる。
アブセスもクルウも傭兵にはめずらしいユイラ人だ。
アブセスは親しみやすい顔立ち。
クルウは長い黒髪のかなりのハンサム。
「異常はないか?」
「ありません」
「巡回してこい」
「はい」
ワレスの命令で、二人は歩いていく。
二人が自分たちの受け持ちの区域を見まわりしているあいだ、ワレスたちはこの場所で待つ。こうして、すみずみまで監視するのだ。
アブセスたちはユイラ人だからというのもあるが、任務ちゅうは、いちおう誰もが従順だ。でなければ、自分の命が危うくなる。それはみんなが知っている。
人が自分の命令にしたがうこの瞬間。
ワレスは一種のエクスタシーを感じる。これまで生きてきたどの瞬間より、充実した気分になる。
危険のさなかにある緊張感が、なおさらにその思いを高めるのかもしれない。
やっと自分のあるべき場所に帰ってきたという思い。
ワレスはこのために砦を離れないのだ。
優しい女たちの待つ都をすて、明日、死ぬかもしれない危険な砦にいつづける。
つまり、力の感覚だ。
ワレスを正当に評価されて得たこの力。
誰に媚びたものでもない。
愛していない女に、愛をささやいたわけでもない。
女たちのくれた金で、本心はワレスを
ましてや、人並みはずれた美貌を買われたわけでもなく、純粋に、ワレスが剣の腕で、みずから得たもの。
誰にでも——いや、誰よりも自分に胸をはっていられる。おれもまだ捨てたもんじゃないと言える。
死の危険をおかしてまで、ワレスはそれが欲しい。
ワレスの自尊心は、それほどまでにズタズタに引き裂かれている。
ひとかけらのパンのために、最初に男に体を売ってから二十年以上も。
「分隊長。見まわり、完了しました。異常ありません」
アブセスとクルウが帰ってきた。
報告を受けて、ふたたび、ワレスはエミールと歩き始める。三組、四組と合流し、五組のいるところまで来て、ワレスは顔をしかめる。
「一人か。ケルンはどうした」
二人でいるはすのブランディが、一人で木によりかかっている。
「しょんべん行ったぜ」
「一人で行かせたのか?」
「だって、見てるとできねえなんて、女みたいなことぬかしやがるからよ。でも、もう帰ってくるだろ。なんかありゃ悲鳴のひとつも聞こえるよ」
ワレスは舌打ちした。
「あいつは前にもそう言ったんだぞ。ホライが消えたとき。やつがちゃんとホライについてたら、ホライは助かったかもしれない」
ブランディも顔色を変えた。
「こ、今度からは気をつけらあ。おれだって、やられたかねえからよ」
「どっちへ行った?」
ブランディの指さすほうへ、ワレスは歩きだした。
エミールがあわてる。
「隊長。おれも行くの?」
「おまえはおれのペアだ。おれが何も言わないときはついてこい」
エミールが追ってくると、ブランディまでついてきた。
「待ってくれよ。おれを一人にしないでくれ」
急に一人が怖くなったらしい。
「悲鳴の聞こえる距離なんだろう?」
「そりゃないぜ。悲鳴が聞こえたときには遅いじゃねえか」
なんとも自分勝手だが、それが傭兵の本音だ。自分が助かれば、それでいい。
ちょうど、そんな話をしていたときだ。遠くのほうで、かすかに悲鳴が。
「ケルンかな?」
どうやら、ワレスたちの管轄のとなりの区域からのようだ。となりと言っても、走れば、たいした距離じゃない。一人で残して危険にさらすより、つれていったほうがいい。
「さあな。ブランディ。きさまも来い」
「おお」
ワレスたちは走りだした。
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