6—2
思わず、ワレスは怒鳴りつける。
「泣くな!」
ティアラはその場に泣きくずれた。
それを見て、なおさら、カッとなる。
なぜ、そんなふうになったのか、自分でもわからない。自分でもわからないことが、いっそう、ワレスをいらだたせる。
「泣くな。うっとうしい……」
しばらく、ティアラは泣き続けていた。
ワレスはそれをイライラしながら見つめていた。
(ちょうどいい。潮時だ。いつものように言えばいい。あなたと彼女を二股かけていたんです。おイヤなら別れますか? そう言えば)
だが、言えなかった。
ただ、むしょうに腹が立って、泣いている女をなぐりつけたいような……いや、違う。
なぐりたいのは自分だろうか?
わからない。
ただティアラの泣き声が神経にさわる。
そうやって、心の扉をたたくのはやめてくれ。
「ただの女友だちだと言ってるだろう? 信じられないのか?」
おれはマヌケな亭主みたいなことを言ってる。浮気を見つかった亭主みたいな……。
ティアラは顔をあげた。
ゆっくりと、こう言った。
「わたくしといっしょに逃げて。ワレス」
なぜ、とつぜん、ティアラがそんなことを言いだしたのか、ワレスには理解できなかった。
「なんだって?」
「わたし、今朝。ギルバートと言い争ってきたわ。もう帰らないつもり。わたくしと逃げて」
何を言ってるんだ? この女……。
「わたし、あなたのためにジャムを作るわ。あなたのためにスープを作り、服を縫って、洗濯するわ。そうじをして、歌をうたって。あなたといっしょに暮らしたいの」
一瞬、それもいいと思う自分がいて、ワレスは困惑した。
どこかの田舎に小さな家を持ち、ティアラと暮らす。
ワレスは稼ぎは少ないが、誰にでも胸をはって言えるかたぎの職につく。この年で商人に奉公するのはムリがある。さしずめ、私塾の講師というところか。なまいきな悪たれに手を焼いて帰れば、ティアラが夕食を作って待っている。
——ごめんなさい。あなた。今夜は残り物しかなくて。だって、お給料日前は家計が苦しいんですもの。
——いや。君はよくやってくれてるよ。貴族の君にこんな苦労をさせて、すまない。おれみたいな甲斐性なしに、ひっかかったばっかりに。
——ワレス。わたくしは幸せよ。あなたといられるだけで……。
とめどなく妄想がわきだして、ワレスは自分の正気を疑った。
封印の扉が、いましもひらかれ、たくさんの死体がとびだしてきそうな気がした。
だめだ。この扉をあけるわけにはいかない。
あのとき、おれは決心した。最後に愛した、あの人が死んだとき。
もう誰も愛さないと。
誰にも本気にならないと。
でなければ、またひとつ、死体が増えることになる。
そう決めて、ジゴロになった。
軽薄な肉体だけの恋に生きてきた。この十年。
けれど、それでも人とのかかわりのなかで、大切なものができてしまう。
そのたびに逃げてきた。
ジョスリーヌからも。多くの愛人からも。友人からも。
彼らがワレスのなかで、存在が無視できなくなると、逃げた。
愛する人を作らないために。
でも、もう限界だ。
愛のない世界は虚しくて、味気ない。
生きている心地がしない。
死んだように生きるには、ワレスはまだ若すぎて。
気がつけば、誰かの手を探し求めてる。ワレスを抱きしめてくれる手を。
その手がティアラであることは、ゆるされるのだろうか?
封印の扉の奥で、死人たちが目をさますのを、ワレスは感じた。
おれにはもう必要ないからと、封じこめた愛の記憶が。
ティアラを見つめる。
すがりつくような期待の眼差しで、ティアラはワレスを見ている。
もし、ここで、ワレスが「二人で生きよう」と言えば、ティアラは迷いなくついてきただろう。そういう目をしていた。
だが、ワレスが口にしたのは、心とは反対の言葉だ。
「金のないあなたになど、興味はない」
言ってしまうと、ほっとした。
そうだ。これでいいんだ。
おれには愛なんて必要ない。
これまでどおり、封印の扉の墓守でいよう。
ワレスが背を向けると、泣き声はやんだ。
ティアラはあきらめて屋敷へ帰るだろう。夫との仲は多少ギクシャクするかもしれないが。
どうせ、それは最初からだ。すぐに元のさやにおさまるさ。
考えていると、背後で大きな物音がした。ふりかえると、ティアラが倒れていた。胸からみるみる、赤い血があふれてくる。
「ティアラ!」
ギルバート小伯爵が叫びながらとびこんできたのは、このときだ。ティアラのあとをつけてきたらしい。
「しっかりしろ! ティアラ!」と、必死にティアラを抱きしめる。
ワレスは二人をながめた。
これは茶番だ。
愛に命をかけるやつなんて、いない……。
そんな思いが、ぼんやり、胸に浮かんだ。
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