5—2


 まるで、本だなの影のなかから、ぬけだしたように、人影が現れる。陰気くさいグレーの衣を頭からかぶって、顔もわからない男だ。


「司書のロンドです。なにかお探しですか?」


 よく見ると、薄暗い文書室のなかには、ほかにもそういうのが何人もウロついている。


「魔術師か?」

「さようにございます」


「城で有名な逸話があるだろう。二、三、話してくれ」

「ここ二百年では、砦の歴史に残るほどの逸話はありませんね。ですが、古くには、あやうく全滅の憂きめにあうほどの危機もあったようです」


「たとえば?」

「今から四百と二十一年前——」


 語りながら歩く司書のあとに、ワレスたちはついていく。


 無限に書棚だけがならんでいるかのような部屋。

 案内に立つのは亡霊のような魔法使い。

 あまり人の好んで来るところではない。

 その日は、ワレスたち以外の閲覧者はいないようだった。


「——と、けっきょく、井戸の底に生えていたネフラルカの胞子が、人の神経を侵すものであることがわかりました。井戸の水を飲んだ者は皆、一時的に錯乱さくらんしたのですね。このように、恐ろしいのは魔物ばかりではありません。植物も脅威になりうると、先人は伝えております」


「しかし、よくわかったな。井戸の水がおかしいと」

「これを申しますと、落とし話のようなんですがね。一人、三度の食事より酒の好きな兵士がおりまして。水を飲まなかったという……」

「なるほど。落とし話だな」


 どうやら、影のような司書の、それがせいいっぱいのお愛想らしい——そのことに対して、ワレスは笑った。


「井戸といえば、東の内塔にもあるな。なぜ、あれを身投げの井戸というのだ?」と、本題をきりだす。


「そう呼ばれるようになったのは、二百年前のようです」

「情死があったらしいな」

「文書がございます。こちらへどうぞ」


 二百年前の棚から、司書が一冊の書物をぬきだした。文書は革の装丁をつけて、本の体裁ていさいになっている。


「今のところ、もっとも最近の身投げの記録は四年前。砦に来たばかりの兵士で、遺体は見つからず。同室者の言葉から、恋仲の女がいたことがわかっています」


「相手の女は?」

「女が誰だったのかは知られていません。いなくなった者はいないので、沈黙を守ったのでしょう」


 四年前ならば、リリアは二十五、六かと、ワレスは思う。


「では、正しくは情死ではないな」

「そうなりますね。似たような文書はいくらでもあります。あの井戸の犠牲になった者は、この二百年でおよそ五十人。多いととりますか? 少ないととりますか?」


 少なからず、ワレスはおどろいた。

 五十は多すぎる。

 情死というのなら。


「それがみんな、心中か?」

「なぜか、そのようなウワサになってますね」


「違うのか?」

「事実はさきほどの件と同じです。恋をしてると仲間内で言われる男が、一人で身投げをしている」


 胸さわぎがする。


 ハシェドが青ざめた。

 ワレスの手をひっぱる。


「隊長」


 ワレスはその手をふりはらった。

「二百年前だな?」


 司書がうなずく。

「最初の女が身を投げましてから」

「どの女だ?」


 思わず、ワレスはきつい口調になっていた。ロンドが示す文書をのぞきこむ。

 読むうちに、ワレスはスッと血の気がひくのを感じた。なんとなく、そうではないかと思っていた。


(リリア——)


 おまえが、そうだったのか。


 二百年間。男を水底にひきずりこんでいた水魔。

 最初に身を投げた女の名は、リリアだった。

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