四章
4—1
*
一人でなら絶対に行かない高級料理店で、ティアラと最初の夜をすごしたのち。
ワレスはしばらく、ダンスホールから遠のいていた。
じらすつもりもある。恋も初めのうちは、うまくいかないほうが楽しい。初めからうまくいく恋は、手放すのに未練もなくなる。
ほんとのところは、現金があまりなかったせいだ。
先夜の支払い。料理店もボーイのチップも、ダンスホールの払い。すべて、ワレスが持った。貴婦人の相手をするのは、何をするにも金がかかる。
ジョスリーヌのところに行けば、小遣いは好きなだけくれる。それはわかってる。だが、どうせ嘘をつくなら、ほんとらしいほうがいい。
皇都にワレスはちょっとした屋敷を持っていた。昔なじみから譲りうけたものだ。
庭つきのしゃれた家。豪邸ではないが、貴婦人を招くには申しぶんない。中庭には、以前ここに住んでいた婦人が丹精していた
ワレスが書斎で手持ちぶさたに薔薇をながめていると、
「だんなさま。お客さまがお見えです」
執事のリュスターが告げにきた。
「ティアラさまとおっしゃるご婦人です」
「そろそろ来るころと思っていた。お通ししろ」
「はい」
リュスターはワレスの職業を知っている。おそらく、彼自身、昔は同じ仕事をしていた。女性出入りの激しい若い主人について、うるさく
しばらくして、ティアラは書斎に案内されてきた。
約束もなく、とつぜん訪ねてきたことを恥じる気持ちと、いつまでもダンスホールへ来てくれないワレスをなじる気持ちと、半々の顔をしている。
「よく、ここがわかりましたね」
「ダンスホールのお友だちから聞きました。アンリさんというかた」
ジゴロどうし、持ちつ持たれつということか。
あるいは声をかけてみて、自分のほうになびくかどうか試してみた——というところだろう。
「地図まで書いてくださったのよ。あなたのまわりのかたは、みんな親切ね」
「貴婦人には甘い連中ですので。立っていないで、こちらへどうぞ。お茶でもいかが?」
「ありがとう」
ベルを鳴らして、リュスターを呼ぶ。ティーセットを運ばせた。
「あとは私がする。さがっていい」
なれた手つきで、ワレスは白磁のカップに金色のコーニン茶をそそぐ。ティアラは落ちつかなげに、それをながめる。
「……小間使いはおりませんの?」
「ええ。若い娘は置きたくありませんから」
「でも、不便ですわ。なぜ?」
若い娘が同居するのを、あなたのような客が嫌うからですよと、ワレスは心の内で答える。
「お茶をどうぞ」
薔薇の香りのする窓ぎわで、薔薇のジャムをおとしたお茶を、ティアラに渡す。
「よい香り」
「お気に召しました?」
「この庭の薔薇を使ったジャムなの?」
「ええ。さきほどの執事が作るのです。彼は器用でしてね。なんでもできる」
「わたくしもジャム作りは得意よ。でも、奥さまは? あなた一人でお暮らしではないのでしょう?」
言いながら、ティアラは頬を染める。
「私は独身です。だから、かんたんなことは自分でします。つくろいものとか」
ティアラは冗談だと思ったようだ。笑い声をあげる。
「あなたが針を持つところなんて、想像できないわ」
「なんなら、ごらんに入れますよ?」
ワレスが真剣に言うと、ティアラの表情は痛ましげになった。
「でも……ご家族はおありでしょう? お母さまが」
「母は死にました。私が幼いころにね」
母が死んだのは、五つのとき。
母がいないことは、ワレスにはあたりまえで、もうどうだっていい。だが、女はこのセリフに弱い。
「顔もよくおぼえていません。明るくて元気のいい人だった気がする。少し、あなたに感じが似てたかな」
「ごめんなさい。わたし……」
泣きそうなティアラに、ワレスは微笑みかける。
「気にしてませんよ。どうです? 庭を案内いたしましょう。あなたの城にくらべれば、箱庭みたいなものでしょうが」
「どうして、そんなふうにお思いになるの?」
「見たら、わかります。あなたはどこか、よいところの奥方だ。だから、私は……」
ワレスは口をつぐむ。
ティアラが息をつめて見つめる。
「だから、なに?」
「いいえ」
ワレスは首をふって立ちあがる。
「庭の手入れもリュスターの仕事です。彼は庭仕事が趣味でね。上手に薔薇を咲かせますよ」
薔薇はちょうど盛りだった。赤や白、黄色、ピンク。大輪の花が競うように咲き狂っている。
「これが、リュスター自慢の黄水晶ですよ。花弁が透けるように薄いのが特徴で、花を咲かせるのが難しいのです。そのため、黄色い女王と呼ばれているのだと……」
手をひいて庭を歩きながら、うんちくを語っていたワレスは、ぼうっとしているティアラに気づいた。
「退屈ですか?」
「え? いいえ」
「ぼんやりなさってたでしょう?」
「いいえ」
ティアラが赤くなるのは、ワレスに見とれていたからだ——ということを、ワレスは知っている。黄水晶の花弁より、もっとまぶしいワレスのブロンドに。
ワレスは急にそこにいるのが二人きりだと気づいたふりをして、手をはなした。
「今日はお供のかたはいないのですね」
「帝立劇場においてきました。わたくし、ぬけだしてきたの」
「いけませんね。言ったでしょう? あなたのようなかたが、一人で歩いてはいけないと」
「でも、あなたに会いたかったのです」
「ご主人に知られたら、どうするのです?」
「あの人はあの人で、勝手にやってるわ。わたくしのことなんてどうだっていいの」
ふいにまた、ティアラの目に涙が浮かんでくる。
ワレスはため息をついた。
「泣き虫ですね。あなたは」
「ごめんなさい」
「ご主人を愛しているのでしょう?」
「ええ……いいえ。そう思ってたの。でも、違う。わたくしたち、親どうしの決めた相手で、いとこなの。あの人にとって、わたしはお人形遊びをせがんでいたころの少女にすぎないのだわ」
「でも、あなたは愛している」
涙にぬれた物言いたげな瞳で見あげるティアラを、ワレスは見つめる。そして、くちづけ……。
そのまま、数分がすぎた。
うっとりしているティアラを、ワレスはひきはなす。
「帰りなさい」
言いながら、背中をむける。
「どうして?」
「あなたにはご夫君がある」
「そんなこと、いいの」
おずおずと、ティアラの指が、背後からワレスの胸にまわってくる。
「おねがい。わたくし、頭がおかしくなりそう。この前、あなたと別れた夜から、あなたのことしか考えられない」
「ティアラ……」
もう一度、今度はもっと激しく抱きあい、唇をかさねた。
薔薇のしげみの奥で数刻をすごしたのち——
「初めて会ったときから、あなたのことが気になっていた。だからこそ、会わないほうがいいと思っていたのです」
告白(でも、それは偽りの)をするワレスへの、ティアラの返事はこうだ。
「愛しているわ。ワレス」
何人もの女からささやかれた言葉。
そして、何人もの女にささやいてきた言葉。
「私もです。ティアラ。愛している」
いつもと同じことが、また始まったのだ。
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