三章

3

 *



 ティアラはユイラの宮廷貴族のなかでも、名門のヴィクトリア家の奥方だった。古くは皇族にもつながる血統の伯爵家だ。

 実家はヴィクトリア家の一門——つまり、名門どうしの婚姻。夫のギルバート小伯爵は、従兄弟で幼なじみ。親どうしの決めた結婚だった。


「ワレス隊長」


 呼びかけられて、ワレスは我に返った。


 これから城壁の外へ、森を焼きに行くところだ。前庭に整列しなければならない。小分隊の部下全員と移動している。


 小分隊はユイラの軍隊組織の末端単位なので、人数は四、五人と少ない。兵士たちのあいだでは、気軽に一班、二班とも呼ばれる。


 団体行動では、ワレスが部下の行動にも責任を持たなければならない。


 ワレスは呼びとめたハシェドをふりかえった。

「なんだ?」


 ハシェドはひっそりと、ワレスの耳元にささやいてくる。


「このところ、毎晩、おでかけのようなので」

「私語はつつしめ」と言ってから、ワレスは「あとで」と、仕草で示す。

 ワレスはハシェド以外の部下を信用していないのだ。


 前庭につくと、コリガン中隊の傭兵ようへい、五百名はほぼ集まっていた。


 もうじき明七刻になる。日が中天にかかろうとしている。本来なら、ワレスたちのような夜勤の兵士は、まだ休憩の時間だ。

 が、今日は月に一度まわってくる森焼きの番だ。第一から第四までの大隊が、十日に一度ずつ、順番に受けもつ仕事だ。


 どの大隊でも、この役をかせられるのは傭兵だ。いつ、どこで、どんなことが起こるか想像もつかない危険な魔族の森に、愛国心から志願した正規兵を送りこむことなどできないというわけだ。


 傭兵の命は使いすて。

 いつ死んでもいい。

 どうせ、こんな辺境に金で買われてくるような者は、やましいことがある連中。人に顔向けできないことをした人間ばかりだ。そう。ワレスのように。


 明七刻の鐘がなった。

 コリガン中隊長が側近をつれてやってくる。

 傭兵たちは、はね橋をわたり、城壁の外に出ていく。


 作業そのものは簡単だ。何度もくりかえし焼かれて、焼け野原になっている城壁前の草を刈り、切り株をほりおこし、火をつける。

 一つには、砦からの見晴らしをよくするため。

 二つめは、毒性の植物を繁殖はんしょくさせないため。

 そして、もちろん、魔物を砦に侵入させないため。


 ワレスは、この作業が嫌いだ。ひとつき前、入隊したばかりのときに一度、経験した。危険なわりに、地味で退屈。手柄にもならない。


 まるで農夫のように、かまを手に泥にまみれた姿を、かつての愛人たちが見たら、なんと言うだろう。


 ワレスは愛人の女たちに冷たかった。

 商売上、表面的には優しかった。でも、心から愛した人は誰一人いない。そういう冷たさは隠しようがなかっただろう。


 だから、別れ話を切りだしてくるのは、たいてい、向こうからだった。



 ——もういいのよ。ワレス。あなたを自由にしてあげる。今まで、ありがとう。



 そう言って、泣きながら去っていった女の数は、どれほどだったのか。自分でも、よくわからない。


 おれは誰も愛さない。愛したくもない。

 心の奥底が、ひんやりと雪のように冷たく、かたまっている。

 誰が何をしても、この雪をとかすことはできない。


 天使が消えたあの夜から、ワレスの心はとっくに死んでいる。もう十年も前から。


(ひどく、あしらった罰だと言うだろうな。女たちは。いい気味だと笑うだろう)


 だから、嫌いなのだ。

 この作業は。

 自虐的な気分になる。


「ワレス隊長」


 作業が始まって隊員がちらばると、ハシェドがよってきた。


「さっきの続きですが。このごろ、交代のあと、必ず下へ行かれますね」

「見ていたのか」

「それは見ますよ。二晩続けて女の話のあとですから」


 ハシェドは雄弁な目で、ワレスをのぞきこんでくる。


「まさか?」


 思わず、ワレスは笑った。

「まあな」

「やっぱり。うまくやりましたね。うらやましいなあ」


 そう言ったあと、ハシェドは気になるような素振りをした。


「でも、身投げはしないでくださいよ?」

「バカ言うな」


 なぜ、おれが女のために身投げなんてしなければならないんだ。


「心配するな。おれはそんな愚かなことはしない」

「なら、いいんですが」


 不安げなハシェドが、ただおせっかいに見えた。そのときは……。


 その夜。

 昼の労働があった日も、通常の任務がとかれるわけではない。

 いつものように、ワレスは内塔の見張りのあと、身投げの井戸へ向かった。すでにリリアは来て、林のなかで手招きしていた。


「待ったか?」

「そんなには待たないわ」

「塔の屋上から見ているのに、おまえがいつ、ここに来るのか、いつもわからない。こんなところで一人でいて、恐ろしくはないのか?」

「いいえ。あなたを待ってるんですもの。怖くないわ」


 二人は抱きあい、草の上で愛しあった。

 毎夜の、つかのまの逢瀬。

 二人には長い時間はゆるされてない。見張りの兵士も怪しむ。ワレスの同室者も、そろそろ、いぶかしんでいるはずだ。


「おまえはいいのか? 毎晩、城をぬけだして」


 あわただしい情事のあと、ワレスはリリアのひざまくらで草むらに寝ころがった。リリアは子猫の背中をなでるように、ワレスの髪や、体の一部にふれたがった。


(ティアラ。おれを愛した不幸な女。おれはなぜ、リリアを見てると、おまえのことを思いだすのだろう?)


 しぐさが似ているからか。

 声音のせいか。

 都で愛した最後の女だからか。

 良心がうずくのか。

 だましたのは、ティアラ一人ではないのに?


 おれは、後悔しない。

 もらった金のぶんは楽しませてやったんだ……。


「誰のことを考えてるの?」


 女はときどき、ひどく、するどい。


「べつに」

「嘘。あなたはわたしを見ながら、別の人のことを考えてる」

「怒ってるのか?」


 ワレスは手を伸ばし、リリアを抱きよせようとした。その手をリリアが押しやる。


「もう帰って。わたしは衣服をなおしてから帰るから」

「おれは、おまえとこうしてるのが好きだ」

「わかってるわ」


 リリアは笑う。

 ワレスの上に覆いかぶさってきた。長い髪がワレスを包み、唇がかさなる。


 リリアは自分のことを語らない。城ではどんな勤めについているのか。家族のこと。故郷のこと。結婚はしてるのか。

 ワレスのことも聞こうとしないのは、さびしい砦暮らしの火遊びだからかもしれない。


(それなら、それでいいさ。おれだって……)


 愛してるわけじゃない。ただ、少し……。

 ただ少し、なんだというのだろう?


 落ちつかない気分になって、ワレスは立ち去った。

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