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「ヒマそうじゃないか。ワレス。昨日の女、帰すんじゃなかったと後悔してるだろう?」
いつものように、夕暮れとともにワレスがダンスホールに来ると、すでにロディーがいた。待ちかねたように皮肉を言う。
「昨日はあのあとジョスが来て、おまえがいないのをずいぶん残念がってた。しょうがないから、アンリをつれていったが」
ジョスリーヌは遊び好きな未亡人だ。芸術家の卵や、見目のよい若い男を集めるのが趣味の女侯爵だ。社交界の女王で、ワレスのパトロネスの一人でもある。
「どおりで、アンリの姿が見えない」
「アンリは見場はいいが、歯のぬけたウサギみたいなもんだ。今ごろ、ジョスにしぼりつくされて、くたばってるんだろう。なにしろ、ジョスは火みたいな女だ」
悪意のある下品なあてこすり。
ワレスは冷淡に、ロディーを見る。
「女のベッドで人事不省なら、アンリは満足だろう。あぶれた誰かよりはな」
ロディーは怒りに満面を朱に染めて離れていく。
昨日の女が来たのは、そのすぐあとだ。落ちつかなげにホールに入ってきて、キョロキョロしている。ワレスを見つけると一直線にやってきた。
「おや。また来たのですか」
ワレスが言うと、女はサッと手をふりあげた。だが、きゃしゃな手が頬をぶつ前に、ワレスは片手でかんたんにその手をとらえた。その指に
「今日はお酔いではありませんね。安心しました」
「まあ……」
「何があったか知りませんが、やけはいけませんよ」
「心配してくださったの?」
「ええ」
それだけで充分だった。
しばらく、女は戸惑うように絹のハンカチをもみしぼっていた。そして、うつむくと涙をこぼした。
「なぜ、泣くのです?」
ワレスがのぞきこむと、あわててハンカチで顔を隠す。
「なんでもないわ」
「泣いてるご婦人がなんでもないわけがない。まあ、おかけなさい」
ワレスは女の手をとって、椅子にかけさせた。泣きやむまで手をにぎっている。
やがて、女は落ちついた。
「ごめんなさい。わたくし、とりみだしてしまったわ」
「誰だってそんなときはある。一曲、踊りませんか?」
ワレスの言葉はさりげない。
女がうなずく前に、かろやかな風のように、にぎっていた女の手をひいた。女の体はくずれるように、ワレスの腕のなかにおさまる。
優雅なメヌエットのリズムにのるうちに、女の気持ちもほぐれてきた。
「わたくし、まだ、あなたの名前を聞いてなかったわ」
「ワレスです。奥さま」
「奥さまなんて呼ばないで。わたくしは、ティアラよ」
「古い言葉で、冠ですね」
「あなたは褒めないのね。わたくしの名前」
「私はあなたをくどこうとしてるわけではありませんから」
「まあ。殿方が女の名前を褒めるのは、くどくときだけだとおっしゃるの?」
「まあ、おおむね。でも、じっさい、あなたの名前は美しい。あなたにお似合いですよ」
ティアラは薄く頬を染めた。
「お上手ね。でも、わたくし、自分の名前が好きではないの」
「なぜ?」
「だって、ティアラはティアに似てるでしょう?」
「なるほど。何か泣きたいことでも?」
ティアラはうつむいた。
その目には、もう涙が浮かんできている。
ワレスは強引に、ティアラの頭を自分の胸に押しつけた。
「今は忘れたまえ。踊っていれば気分も晴れる」
二人は何度も曲が変わるあいだ、踊りつづけた。
「気は晴れましたか?」
「こんなに踊ったのは、ひさしぶり」
「では、食事に行きましょう」
「リードがお上手なのは、ダンスだけではないのね」
ティアラは笑いながら、ワレスについてくる。すっかり、心をゆるしてしまったようだ。
(生まれたての赤ん坊のような世間知らずな女。ジゴロの意味さえ知らないのではないか?)
ワレスはティアラの手をひいて廊下へ出た。ロディーの前を通るとき、いくらか得意だったのは、たしかだ。
「好きな店はありますか?」
「わたくし、外で食事をしたことがないの」
「いけませんね。そんなかたが、お一人で」
「でも、こうしなければ、あなたには会えなかったわ。もっと早く外に出てみたらよかったと、今は思ってるの。みんなが言うほど、外は危険ではなかったわ」
「いいえ。食事をしたら、あなたは帰るのです」
「そんな……」
泣きそうな目で、ティアラが見る。
「話し相手がほしければ、私はここにいます」と言うと、今度はホッとする。
「やさしいのね」
「泣いてるご婦人にはね」
ワレスは微笑して、ボーイを呼んだ。
「馬車を表に」
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