2—2

 *



「ヒマそうじゃないか。ワレス。昨日の女、帰すんじゃなかったと後悔してるだろう?」


 いつものように、夕暮れとともにワレスがダンスホールに来ると、すでにロディーがいた。待ちかねたように皮肉を言う。


「昨日はあのあとジョスが来て、おまえがいないのをずいぶん残念がってた。しょうがないから、アンリをつれていったが」


 ジョスリーヌは遊び好きな未亡人だ。芸術家の卵や、見目のよい若い男を集めるのが趣味の女侯爵だ。社交界の女王で、ワレスのパトロネスの一人でもある。


「どおりで、アンリの姿が見えない」

「アンリは見場はいいが、歯のぬけたウサギみたいなもんだ。今ごろ、ジョスにしぼりつくされて、くたばってるんだろう。なにしろ、ジョスは火みたいな女だ」


 悪意のある下品なあてこすり。

 ワレスは冷淡に、ロディーを見る。


「女のベッドで人事不省なら、アンリは満足だろう。あぶれた誰かよりはな」


 ロディーは怒りに満面を朱に染めて離れていく。


 昨日の女が来たのは、そのすぐあとだ。落ちつかなげにホールに入ってきて、キョロキョロしている。ワレスを見つけると一直線にやってきた。


「おや。また来たのですか」


 ワレスが言うと、女はサッと手をふりあげた。だが、きゃしゃな手が頬をぶつ前に、ワレスは片手でかんたんにその手をとらえた。その指に接吻せっぷんする。


「今日はお酔いではありませんね。安心しました」

「まあ……」

「何があったか知りませんが、やけはいけませんよ」

「心配してくださったの?」

「ええ」


 それだけで充分だった。


 しばらく、女は戸惑うように絹のハンカチをもみしぼっていた。そして、うつむくと涙をこぼした。


「なぜ、泣くのです?」


 ワレスがのぞきこむと、あわててハンカチで顔を隠す。


「なんでもないわ」

「泣いてるご婦人がなんでもないわけがない。まあ、おかけなさい」


 ワレスは女の手をとって、椅子にかけさせた。泣きやむまで手をにぎっている。

 やがて、女は落ちついた。


「ごめんなさい。わたくし、とりみだしてしまったわ」

「誰だってそんなときはある。一曲、踊りませんか?」


 ワレスの言葉はさりげない。

 女がうなずく前に、かろやかな風のように、にぎっていた女の手をひいた。女の体はくずれるように、ワレスの腕のなかにおさまる。

 優雅なメヌエットのリズムにのるうちに、女の気持ちもほぐれてきた。


「わたくし、まだ、あなたの名前を聞いてなかったわ」

「ワレスです。奥さま」


「奥さまなんて呼ばないで。わたくしは、ティアラよ」

「古い言葉で、冠ですね」


「あなたは褒めないのね。わたくしの名前」

「私はあなたをくどこうとしてるわけではありませんから」


「まあ。殿方が女の名前を褒めるのは、くどくときだけだとおっしゃるの?」

「まあ、おおむね。でも、じっさい、あなたの名前は美しい。あなたにお似合いですよ」


 ティアラは薄く頬を染めた。


「お上手ね。でも、わたくし、自分の名前が好きではないの」

「なぜ?」

「だって、ティアラはティアに似てるでしょう?」

「なるほど。何か泣きたいことでも?」


 ティアラはうつむいた。

 その目には、もう涙が浮かんできている。

 ワレスは強引に、ティアラの頭を自分の胸に押しつけた。


「今は忘れたまえ。踊っていれば気分も晴れる」


 二人は何度も曲が変わるあいだ、踊りつづけた。


「気は晴れましたか?」

「こんなに踊ったのは、ひさしぶり」

「では、食事に行きましょう」

「リードがお上手なのは、ダンスだけではないのね」


 ティアラは笑いながら、ワレスについてくる。すっかり、心をゆるしてしまったようだ。


(生まれたての赤ん坊のような世間知らずな女。ジゴロの意味さえ知らないのではないか?)


 ワレスはティアラの手をひいて廊下へ出た。ロディーの前を通るとき、いくらか得意だったのは、たしかだ。


「好きな店はありますか?」

「わたくし、外で食事をしたことがないの」


「いけませんね。そんなかたが、お一人で」

「でも、こうしなければ、あなたには会えなかったわ。もっと早く外に出てみたらよかったと、今は思ってるの。みんなが言うほど、外は危険ではなかったわ」


「いいえ。食事をしたら、あなたは帰るのです」

「そんな……」


 泣きそうな目で、ティアラが見る。


「話し相手がほしければ、私はここにいます」と言うと、今度はホッとする。

「やさしいのね」

「泣いてるご婦人にはね」


 ワレスは微笑して、ボーイを呼んだ。


「馬車を表に」

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