二章
2—1
*
「お待ちください。奥方さま。あの男はおやめください」
見るからに遊びなれない貴族の女に、侍女が必死にとりすがっている。その声はにぎやかなダンスホールの音楽のなかでさえ、よく響いた。
さっきから、ワレスが目をつけている女だ。
女はそうとうに酔っている。だが、化粧はひかえめだし、身だしなみはいい。広いユイラには、彼女の着ているドレス一着の代金で、一生ぶんの生活費をまかなえる者も相当数いる。
育ちのいい貴婦人。
ただし、やけになっている。
「いい女だ」
「こっちに来る」
「しッ。誰のとこに来ても、うらみっこなしだ」
ワレスの同業者たちは全員、彼女に注目していた。ひそかにささやきあう。
自分の年を気にしだしたロディー。
つい最近、通ってくるようになった十五、六の少年。
ちょっと、ビックリするような美青年のアンリ。おとなしい座敷犬のようにすましている。
皇都の夜に浮ついた
皇都の夜はまだ始まったばかりだ。
ダンスホールにも、若い男女のかろやかな靴音と、笑い声が満ちている。となりの帝立劇場も、まだ一幕はすんでいまい。
酔った女はまっすぐ、ジゴロのたまり場になっている休憩室に向かってくる。しらふだったら、彼女だってさけて通るだろう、ワレスたちのほうへ。
ワレスには自信があった。
まわりにどれほど美男がいようと、一番に目をひくのは自分だと。
なぜかは知らない。
青い鏡をはめこんだような、ワレスの独特な瞳に見つめられると、女たちは吸いよせられるように動けなくなるらしい。
そう。このときも。
女はワレスの前に立った。
それが、ワレスとティアラの出会いだ。
「おまえ。わたくしのダンスの相手をしなさい」
女はワレスの目の前に指をつきつける。だが、その指はふるえている。
長椅子に足を組んですわったまま、ワレスは無造作に女の手をつかんだ。唇を押しつける。
上目づかいに見あげると、女の頰がうっすら赤くなった。が——
「おつれのかたが心配しています。今日はもう、お帰りなさい」
冷たく言って手をはなした。
女の顔がさらに赤くなった。怒ったのだ。ワレスをにらみつけ、肩をふるわせている。そして、急に泣きだして、ホールを走りさった。
年かさの侍女が複雑そうに、ワレスを見ている。ワレスの
二人の女がホールから消えると、ロディーがワレスの耳にささやいた。
「おまえがいらないなら、もらってやろうか? あの女」
ロディーは近ごろ、あせってる。ほんとの年は隠しているが、自称三十二というのが嘘だということは、周知の事実だ。じっさいはとっくに四十をこえてるのではないか。
ロディーにはひきぎわをあやまった観が、ありありと見てとれる。本人も自覚していて、にじみでる焦りが見る者を不快にする。
おれはこうはならない——と、ワレスは思う。
「自信があるなら、どうぞ。ご自由に」
ワレスは言いはなった。
いまいましそうな顔で、ロディーは自分の席に帰る。
ワレスは立ちあがった。
今夜はもう帰ろう。
あの女は明日また来る。
ワレスには確信があった。
女とかちあわないよう見計らって、ワレスは表玄関に出た。受付のボーイがよってくる。あずけていたワレスのマントを肩にかけてくれる。
むこうはこれが仕事だ。
貴族でも、ジゴロでも、客は客。
虚栄だな——
この瞬間に押しよせる虚しさを、ワレスはまた感じた。
こうして給仕を使ってる金も、出どころは女のふところだ。決して、ワレス自身がえらくなったわけじゃない。
このごろ、ジゴロの生活が、ひどくつまらない。
誰といても。誰と話していても。生きている感覚がしない。
退屈で、それでいて心の底のほうに、いつも強い焦燥感がある。
何もかもから逃げだしたいような。
何もかもが現実ではないような。
非現実的な
いつも何かが満たされない。
いつも何かが不足している。
外へ出ると、冬の空に街灯が冷たく光っていた。
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