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ななし

雨の日の公園で

「大切な人だよ。」


 電話越しに確かに彼女はそう言った。彼女の悩みを聞くようになってから何度めかの電話でだった。いつも最初はLINEで始まる彼女の悩みは、途切れることなく続き、やがて「電話していい?」と彼女の方から切り出してくる。


彼女は僕の気持ちに薄々気付いていたはずだった。僕は言葉の端々にそういったニュアンスを含ませてきた。


「もうそんな男やめちゃいなよ。」と、その一言が言えればあらゆる形で答え合わせができるはずだったのに、どうしてもその一言を発することが憚られた。


 もしも、その一言を言えれば、彼女の口からでる恋人への想いが本心なのか、ただの愚痴にすぎないのかがわかるだろうし、同時に僕に対する気持ちもわかるはずだった。でも、僕にはまだそんな気になれなかった。怖かったのもあるし、同時に今の関係でも満足するべきだ、と自分に言い聞かせていたのもある。


 LINEの無料通話を使うため、彼女からの電話が長時間にわたるのが常だった。他の相手ならとても付き合いきれなかっただろうが、僕は彼女の声を聞いていられるだけで満たされたので、苦にはならなかった。


時々、僕は彼女に自分の意見を伝えた。それは、彼女に同情するものであったり、彼女の恋人の肩を持つものでもあったが、彼女にとっては僕の意見なんてないに等しかった。彼女の中では、常に答えは決まっていたからだ。悩んでいるふりをして、僕に自分の考えを聞かせて満足しているだけに過ぎない。


 彼女はよく僕の事を外へ誘った。それは食事であったり、映画であったりした。そして、何を食べるとか、何の映画を観るとか、そういったことは全て彼女に合わせてきた。


そして彼女は一度たりとも僕にそういうリクエストを聞くことはなかった。会えば楽しかったし、彼女が喋ったり、恋人の愚痴をこぼしている間、僕は大体黙っていて、彼女の話を聞くだけだった。


 そんないつかの電話で、僕は一度だけ彼女に聞いたことがある。僕たちの関係は一体何なのだろうと。すると彼女はしばらくの沈黙のあと、「大切な人だよ。私にとっては大切な人。」とだけ返してきた。僕は彼女にその問いかけをするときに、なにかを期待していたわけではなかった。極めて無感情に問いかけたのだ。


そして、彼女の答えに対しても、何の感動も起きなかった。彼女のいう「大切な人」というのは、「特別な人」とは違う。きっと、彼女が話をしたいときに「ただいつもそこにいる人」に過ぎない。


 僕はそれから二度とその話はしなかった。彼女の方からその話をすることもなかった。それからも彼女は、何も聞かなかったかのように、いつもと変わらない様子だった。僕は、あの会話はなかったことにされたのだな、と思った。


彼女はあの問いかけを聞かなかったことにしたのだ。それならそれで、僕は構わなかった。


 僕は段々、彼女からのLINEに返信をしなくなった。何か悪意を込めているとか、そういうことではなく、僕自身の体調が優れず、LINEのメッセージに返信することが億劫だっただけだ。


 彼女からのLINEの内容はいつも変わりなく、恋人への不満だったのだが、まあ大体いつも内容は同じようなものだったので、数日LINEを読まなくても、大した違いはない。そう思っていた。「既読」をつけて、それでおしまいにしていた。


 数日後に彼女から、通話着信があったが、僕はこれも気づかなかったふりをした。鼻も詰まっているし、声も枯れていて、とても話せる状態ではなかったからだ。


 僕は彼女に、「風邪を引いて寝込んでいるので、また今度聞くよ。」とメッセージを残した。それ以降、彼女からの連絡もまた途絶えた。僕はあえて連絡をいれようともせず、このまま彼女のことを忘れるつもりでいた。どうせ報われぬ恋なのだから、早く忘れて、次の恋をしたい、と思っていた。


 数ヶ月すると、僕は別の女の子と付き合い始めていた。だからもう彼女のことも思い出す事もなくなりつつあった。時々、LINEの画面に表示される彼女のプロフィール画面が変わったときに思い出すくらいで、それでも僕の方から連絡を入れることはなかった。自分の恋人を裏切りたくなかったし、不安にさせたくなかったからだ。


 ある夜、僕は自分の恋人と自室のベッドで寝ていた。恋人の穏やかな寝息を聞いて天井をぼんやりと見上げていた。


外では雨が強く音をたてて降っている。


僕の恋人はその幼い寝顔を無邪気に見せている。吐息を感じ合える程近くにいるのに、何故かそれ以上の一歩を踏み出せない感覚があった。抱き締めるたびに、なにかが手をすり抜けていくような感覚。それでも、僕はこの子の事が好きだった。


 僕はスマートフォンを手に取った。眠れないので、寝るのは諦めて、ネットでも見ようと思ったのだ。画面にはLINEの新着メッセージを知らせる通知が届いていた。僕は直感で、それが彼女からだとわかった。そしてそれは予想通り彼女からだった。すぐ近くにいるから会いたい、と言う。こんな夜中に、しかもこんな雨のなかで?


 僕は恋人の寝顔を見て、後ろめたい気持ちになった。僕は、今から寝ている恋人を置いて、自分が彼女に会いに行くだろうことをわかっていたからだ。それだけでも重大な裏切り行為だ。だけど、僕は自分に言い聞かせることにした。


「これは裏切り行為なんかじゃないんだ。僕は自分の気持ちを清算しに行くんだ。僕はこれからこの子と一緒に歩み続けていくために、曖昧にしてきた彼女への想いに終止符を打ちにいくだけなんだ。」


 待ち合わせ場所につくと、彼女は確かにそこにいた。子供たちが寝静まった無人の公園に、傘をさして、そこに佇んでいた。僕の気配に気がつくと、彼女は傘を少し上にあげ、記憶の中と変わらぬ笑顔を僕に向けてきた。


「久しぶりだね。」


 彼女の方から声をかけてきた。僕は短く「そうだね。」とだけ答えた。「どれくらいぶり?」と再び彼女が聞いてきたので、僕は再び「会うのは半年ぶりくらいだね。」と短く返した。そして沈黙。


 彼女は目線を足元に落とし、雨でぐしょ濡れになった砂の地面を見ていた。濡れ続けている遊具が二人を囲み、そして静かに見つめていた。


 彼女は思い立ったように顔をあげると、「私のこと、思い出さなかった?」と聞いてきた。僕は答えなかった。


 僕は彼女の方を見たまま、立ち尽くしていた。


今、僕と彼女の間に遮るものは何もないはずだった。何か障害物があれば、彼女はこんな時間に僕を呼び出したりはしない。彼女がこんな時間に僕を呼んだということは、物理的にも精神的にもその障害は全て「取り除かれた」ということだ、と僕は思っていた。


僕は、寝ている恋人を家に置いてきておきながら、今彼女を目の前にすると、彼女を手にいれたいという気持ちで一杯になった。


「今、他に誰かいるの?」


 彼女の問いかけに、僕は我に返った。


「なにが?」と僕は絞り出すような声で答えた。


「わかってるくせに。」


 彼女のしゃべり方には余裕がみなぎっていた。僕と彼女の距離は、雨音で会話が遮られないギリギリの距離だった。僕は再び言葉を見つけられなくなり、黙っている以外になかった。 


 すると彼女は、僕の方へ歩を進め、自分の傘を後方にするりと落としながら、僕の傘の下へと滑り込んできた。僕の身体に自分の身体を寄せて、彼女は僕を見上げている。僕はどうすることもできず、どうしたらいいかもわからずに、硬直していた。


 彼女は僕の胸に自分の額をあてた。僕の身体の一部が、彼女に触れたのはこれが初めてだった。僕が傘を持っていない方の手を彼女の身体に回せば、彼女を抱き締めることができる。それは簡単な動作のはずだった。そして、彼女も僕がそうすることを待っているのだ。その欲求に負けそうになったとき、僕の脳裏に恋人の顔が浮かんだ。家に置いてきている恋人の顔が。


 僕は彼女の肩に手を置くと、そのまま彼女を自分の身体から引き離した。彼女は少し驚いた表情をしていたが、すぐにまた余裕を取り戻したように微笑んだ。


「やっぱり誰かいるのね。」


 彼女は確信したように言った。


「あなたは僕にとって、大切な人なんだ。」


 僕にとって、それは嘘のない真実の言葉だった。それを聞いた彼女は、今度は本当に驚いた顔をして目を丸くした。


そして、次の瞬間、その大きな両目から溢れるように、涙がこぼれ落ちた。








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