飛ぶ
街外れの山へ向けて、あかりは自転車で疾走した。
リュウが、ついていてくれる。
とにかく、日没までにリュウが言った崖まで行かなければ。
あかりは、ただそれだけを心に繰り返した。
住宅街の道から大きな通りへ出ると、車の交通量が急に増える。
大きなトラックも多く、普段から事故の絶えない道だ。
それでもスピードを落としている余裕はない。
あかりは道路脇の狭いスペースを全力で走る。
カーブに差し掛かってふっと車が途切れ、緊張がわずかに緩んだ瞬間——
大型のトラックが、カーブの陰からあかりの正面に突然姿を現した。
トラックは、スピードを落とすことなくあかりを目がけて真っ直ぐに突っ込んでくる。
「——……っ!!!」
やられる——
全てが猛スピードで展開していく中、あかりはなすすべもなく硬く目を閉じた。
ブワ…………ッ!!
その瞬間、トラックの脇腹を猛烈な突風が吹き付けた。
強烈な風の力に煽られ、トラックはあかりのわずか手前で軌道を逸らした。
「……っはあ……っ……」
転倒直前までよろめいた姿勢を必死に立て直し、あかりはペダルを強く踏み込む。
もはや余計なことを考えている時間はない。
『——神の遣いが力を強めてきているようだ。
ノートの記載内容を執行するのが奴らの仕事だからな』
脳内に、リュウの声がする。
その声は掠れ、激しく息が乱れている。
恐らく、今の事故も彼が全力で防いでくれたのだ。
「——ありがとう」
あかりも息が切れ、今はそれしか答えることができない。
あなたに伝えたいことは全部、運命のノートを書き換えてから。
だから。
それまで——どうか、私の側にいて。
あかりは、心の奥でそんな願いを繰り返した。
自転車は、なだらかな上り坂に差し掛かった。
午後6時10分。
あかりは、リュウの指示した山の入り口まできていた。
疲れた足に、坂道は一層重たくのしかかる。
だが、どんなに辛くても、今ここで止まるわけにはいかない。
あかりは我を忘れたように自転車を漕ぐ。
夕日が傾き、次第に影が濃くなる森に挟まれた道をどれくらい漕いでいるのか、もう感覚もわからない。
ただ、リュウの声だけが、はっきりと聞き取れた。
『この坂を越えると、道は下りになる。
その下り坂を、自転車のブレーキをかけずに一気に降りるんだ。
坂の途中のカーブに、ガードレールが切れた箇所が一部分だけある。
その隙間から、君は自転車のまま飛べ』
「——飛べ……って……」
『——……
ガードレールの向こうは、崖だ。
自ら、崖に飛び込む。
普段の君なら、絶対にしないことだ。
——これで、ノートは書き換えられる』
「……嫌。無理……」
ペダルを踏み続ける体は燃えるように熱いのに、あかりの背筋に冷たい恐怖が走る。
『俺が必ず、君を守る。——信じてくれ。
ここでやめてしまったら、君のノートはそのままだ』
「……」
——そうだ。
ここでやめたら、自分には間違いなく死が待っている。
ならば、リュウを信じて——
明日も生きると信じて崖から飛んだほうが、余程いい。
もしも、それで命を落とすとしても。
「……わかった」
あかりは、激しい息遣いの下からそう答えた。
*
もう一息で、道は下り坂だ。
そこまで登れば、あとは坂を降りていくだけ——
そう歯を食いしばってペダルを踏むあかりの前に、すっと白く輝く何かが舞い降りた。
『——あかり』
その声に、はっと顔を上げると——
そこには、リュウと全く同じ顔をした男がいた。
違うのは、髪も衣服も眩しいほどの純白という点だ。
穏やかな微笑を浮かべたその男は、必死に自転車を漕ぐあかりの横をすいと舞う。
『あかり。
——あの黒い魔物の声を、信じるの?』
「…………」
『彼は悪魔だよ——あいつ、自分でそう言ったんだろう?
君はそうやって、素直に悪魔に騙されてしまうの?
——そもそも、悪魔が人間を助けようなんて、おかしな話だとは思わないか。
あの男こそ、君の命を奪う役目を担ってこの世界に来た悪魔だとしたら——どうするんだ?
もし、今日起こったことが全て、君を陥れるためにあいつが仕組んだ罠だとしたら』
「——……罠……?」
日没前に崖へ向かおうというあかりの集中力が、一瞬途切れた。
『奴は悪魔だぞ。そんなやり方はお手の物だ。
敢えて危険な状況を作り、そこから君を守れば、君の信頼は確実に得られる。
そうやって巧妙に君を信じさせて、誘導して——計画通りに、君の命を手に入れるつもりなのだとしたら。
もしもあのガードレールを超えれば、今度こそ君は命を落とす。
目論見通り、彼は悪魔に騙された君をまんまと闇へ連れ去るだろう。
——それでもいいのか?』
ペダルを踏み続けた足が、ふっと止まった。
自転車を静かに停止させると、あかりは乱れる息を呑み込むように、その白い男をじっと見つめる。
「——……」
『……君も、彼の罠に気づいただろう?
引き返そう。
——崖を飛ぶなんて恐ろしいこと、絶対にしてはだめだ』
……罠……
瞳を閉じて——今日自分が見てきたリュウを、あかりはもう一度瞼に呼び起こす。
——海で自分を救ってくれた時に一瞬垣間見せた、真剣な横顔。
トラックの軌道を変えた直後の、あの疲れ切った声。
崩れそうな自分を見つめて励ます、強く暖かい眼差し——
その一つ一つを焼き付けて、瞼を開ける。
美しい微笑で目の前に立つ男へ向ける眼差しが、強い光を帯び——あかりは微かに微笑んだ。
「——……あなたは、神の遣い?
あなたは——悪魔よりも遥かに冷酷だわ。
だって、瞳が奥底まで凍っている。
あなたなんかに、騙されない。
……私は、悪魔を——リュウを信じる。
私は、明日も生きるの。
これからノートを書き換えるんだから——そこをどいて」
あかりは勢いをつけて自転車に跨ると、渾身の力でペダルを踏み込む。
その猛烈な気迫に気圧され、白い影はすっと掻き消えた。
坂の頂上にこぎつけたあかりは、下り坂を見下ろした。
沈む夕日が、最後の光を微かに道に投げている。
『——あかり。
俺を信じてくれて、ありがとう』
リュウが、脳内で小さくそう呟く。
『あいつが君の前に現れたあの瞬間だけは——俺は、何も手出しをできなかった。
黙って見ているしかなかった。
あの場面は、あかりが自分で道を決めなければいけないところだったから。
あかりがあいつの言葉を信じたら……俺は、そこで消えていた』
「私を見くびらないでよ」
あかりは小さく笑うと、すうっと大きく息を吸い込む。
「——いくよ」
『あかり。
自分の運命を変えるんだと——強く、そう願ってくれ』
あかりは、大きく頷く。
そして、足に力を込めて漕ぎ出した。
勢いをつけてペダルを踏む。
下り坂を滑る自転車は、一層そのスピードを増していく。
——やがて、ガードレールの切れ目が、視界に入った。
凄まじい勢いで近づいてくる。
あそこから、飛ぶ。
ノートを書き換える。
運命を、変えてやる。
私は明日も、生きる——
自転車は、ガードレールの隙間を猛烈な勢いですり抜け、飛んだ。
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