運命を変える方法

 あかりが鏡に向かって願った瞬間、部屋の温度が急にすうっと下がるような気配が訪れた。

 そして、じっと見つめる鏡の中に過ぎる、昨夜と同じ黒い影——。


 その影は、あかりの背後まで来ると動きを止める。

 やがて、今日何度も心の中で思い出していたその面影が、鏡の奥に再び姿を表した。



「——リュウ……

 ありがとう。

 もう一度来てくれて……

 今日、何度も助けてくれて」


 この人が、例え悪魔だとしても。

 そう言わずにはいられない。


 緊張と恐怖で張り詰めた心の糸が思わず緩み、涙が零れる。



「——鏡に、手を伸ばして。

 君が俺を信じて手を伸ばしてくれれば、そっちに出られる」


 鏡の中のリュウが、そう囁く。


 あかりは、ためらうことなく鏡の奥へ手を伸ばす。

 冷たい水に手を入れるように鏡の向こうへ浸されたあかりの手を、リュウがしっかりと掴んだ。

 まるで重さを持たない羽のように、リュウは鏡をまたいであかりの部屋へふわりと両足を降ろす。

 左耳のピアスが揺れ、チカチカと小さく瞬いた。



 ここ以外に、もう縋る場所がない。

 氷のように冷たいのに言いようもなく温かい、ここしか。


 あかりは、リュウの腕の中にしがみつくと、大きな嗚咽を漏らして泣いた。









 涙の止まりかけたあかりを優しく椅子に座らせ、リュウは静かに話し出す。


「俺は、君をあの運命から救いたくて、この世界に来たんだ」


「……どうして?」


 まだ浅くしゃくりあげながら、あかりはそう尋ねる。


「俺は、君を知ってる。ずっと昔から。——君が生まれたその瞬間から、君を見てきた」


「え……」


 俄かに恥ずかしげな顔をするあかりに、リュウは一瞬照れたような顔をしたが、それをかき消すように美しい無表情に戻る。

 そして、淡々と言葉を続けた。


「悪魔の仕事の一つだ。悪魔にもテリトリーみたいなものがあって、その領域に生きる命を常にくまなく見ている。

 この星の無数の命の運命を決めているのは、神だけじゃない。

 人間も、運が悪い時なんかによく『悪魔の仕業』とか言うだろ。まさにそれだ。運命は、天使や悪魔、その他いろいろなものの力が複雑に関わり合って出来上がっている。


 ただ——神のノートに書き込まれた運命だけは、容易に変えることができない。

 神のノートだって、神が好き勝手に書いているわけじゃない。

 ——その内容は、神よりも更に大きな存在が決めている。

 神は、告げられた通りにノートを作成するしかないんだ」



「……」


 不思議な説得力に満ちたその言葉に、あかりは深く項垂れる。


 しかし、その絶望感に抗うように頭をぐっと持ち上げると、あかりはリュウを強く見つめた。



「……でも。

 あなたは、昨日……『救う方法が一つだけある』って、そう言った」


 その問いかけに、リュウは深く頷く。


「そう。

 神にもどうすることもできないノートの内容は……君が変えるしかないんだ」



「……どういうこと?」


「神のノートを、書き換える。

 つまり——ノートには書かれていない何かを、君が起こすんだ。

 君自身も想像すらしない何かを起こすことができれば、そこから先のノートの記載内容は全て変更される」



「……そんなの……一体どうすれば……」


「よく聞いて」


 リュウは、あかりの肩に両手を置き、その震える瞳をじっと見つめる。



「俺に——悪魔に、騙されてほしい」



「——……」



「一度だけでいい。俺を信じて、俺の言葉の通りに動いてほしい。

 普段の君ならば、絶対にしないこと……君自身がその行動を選ばなければ、運命は変わらない。

 相当な危険を伴うけれど、覚悟しなくちゃいけない」



「……そんな、怖い……」


「怖がっちゃダメだ。

 怖がっては、ノートの力が増す。

 ただじっと震えていては、運命は変えられない。

 逃げるんじゃなくて、運命のノートに勝つんだと……明日も生きるんだと、強く願ってほしい。

 どんなことが起きても——必ず、君を守るから。


 ……ただ……」



「……ただ……何?」


 あかりの心細げな顔に、リュウは一瞬苦しそうに眉を歪める。



「……俺がこっちの世界にいられるのは、日没までだ」



「————」


 あかりの表情が、不安と恐怖に青ざめた。




「…………

 あかり……さん……」



「……『あかり』でいい。

 ——もう時間がない」



 あかりは拳を強く握り、椅子から勢い良く立ち上がる。


「リュウ。

 私、運命のノートには、負けたくない。——絶対に」



「——よし。

 そうでなくちゃ」


 あかりの言葉に、リュウは初めて蕾が綻ぶような美しい笑顔を見せた。



「ならば、今すぐ一緒に行こう。ノートを書き換えに。

 今日の日没は、午後6時32分——あと約1時間だ。

 俺はあかりの上をついて行く」


 そう言うと同時にリュウの姿は搔き消え、淡い灰色の煙がふわりと舞い上がるとあかりの頭上にすいと漂った。



「うん。

 ——行こう」


 あかりは、勢い良く部屋のドアを開けると階段を一気に駆け下りた。




 玄関を出ると、頭上のリュウがあかりの意識の中へ声を送ってくる。


『あかり。自転車に乗って。

 街外れに、小さな山があるだろう。

 その山の片側は、急な崖になっている。

 これから、そこへ向かおう』



「——……

 わかった」



 リュウは、これから私に何をさせるのか。

 あかりの心が、すっと恐怖で寒くなる。



 ——それは、考えちゃいけない。

 今は、ただ彼を信じるだけだ。


 明日も、生きるために。




 あかりは、足に力を込めて自転車を漕ぎだした。




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