恐怖
太陽の明るく輝く海水浴場は、大勢の客で賑わっていた。
「大丈夫だと思うけど、あんまり沖へはいかないようにねー。ほら、私は日焼けも気になるしもうオバチャンだからビーチバレーでもないし。この辺でのんびりしてるからさ」
車を出してくれた友達の姉が、パラソルの下のビーチチェアに水着姿の身体を投げ出して微笑む。
「二十歳のピチピチ女子大生が何言ってんのー。じゃ、私たち行くね!」
それぞれお気に入りの水着に着替えたあかりと友達二人は、ビーチボールを抱えて輝く海へ駆け出した。
——昨夜の、あの男の不吉な言葉は……
あれは、ただの悪い夢。不快な寝苦しさで、時にはそんなおかしな夢を見ることだってあるんだろう。
夏の浮き立つ空気の中、あかりの脳は昨夜起こった出来事を既にそう処理しようとしていた。
自分が今日死ぬなんて、全くばかばかしい。そんなデタラメな話に囚われて目の前のことが楽しめないなんて、最悪だ。
輝く水しぶきと、絶え間なく肌を撫でていく水の心地よさ。
一年でこの季節にしか味わえない眩しい喜びを、彼女たちは思い切り楽しむ。
波間に飛んだボールを追おうとしたあかりの目が、ふとその先の小さな影を捉えた。
浮き輪をつけた小さな女の子が一人、楽しそうに海水を小さな手で掻いている。自分の力で泳いでいるような気分に夢中になっているのかもしれない。
よく見ていると——女の子を乗せた浮き輪は、思った以上のスピードでそのまま人気のない沖へと流されつつある。
親か付き添いの目は、どうやらその子から離れてしまっているようだ。
「……ねえ、あの子。危なくない?」
あかりはそう友人に声をかける。
「……あ……本当だ……。
まずいよ、あのままじゃ沖にどんどん流されちゃう……!」
「どうしよう、誰か呼ばないと……」
そう戸惑う間にも、女の子の影はどんどん岸から離れていく。
「——私、行ってくる。大丈夫、まだそんな遠くないから」
中学まで水泳部だったあかりは、自分の泳力に多少自信がある。
友達が引き留める間もなく、ざぶりと海水に体を滑り込ませ、女の子の元へと向かった。
少し濁る海水の中を泳いでいくと、女の子の浮き輪と小さな足が視界にはっきりと見えてきた。
『ほら、もう大丈夫……』
あかりがそう思った瞬間——
激しい海水の流れに、突然身体がぐわりと捉えられた。
強烈な勢いに巻き込まれ、思うように手足が動かせない。
驚きで思わず酸素を吸い込もうとしたが水面に顔は出ず、代わりに鼻と口から水が容赦なく押し入って来た。
——苦しい。
身体に巻きつく水に抗うこともできないまま、海の奥へと引き込まれていく。
あ————
あの言葉……
本当だったの——?
暗くなっていく視界の中、灰青色の美しい瞳が脳に蘇った。
「…………っ……」
意識を手放す寸前、不意に身体が力強く何かに抱き寄せられる感覚を感じた。
その衝撃と共に、意識がはっきりと戻ってくる。
顔が水面から出た瞬間、ゲホゲホと激しい咳き込みと同時に酸素が肺に流れ込んだ。
まだ朦朧とする視界に、人影が映る。
自分をしっかりと抱き抱えているのは……ライフセイバー……だろうか。
「——……リュウ……?」
その朧な横顔が——一瞬、彼に見えた気がした。
「ごめん、ごめんね、あかりちゃん……!!私がちゃんと見てなきゃいけなかったんだよね……本当にごめんなさい!!」
「あかりーーー!!どうなるかと思ったよ!何もできなくて本当にごめん……でも、無事でよかった!!」
急遽医務室へ運ばれ処置を受けるあかりに、友達とその姉は激しく取り乱して泣きながら謝罪する。
「いえ、もう大丈夫です。ね、本当にもうなんでもないんだから」
体調も回復したあかりは、いつもの笑顔を作ってそう答えた。
「本当に良かった。あなたが助けようとした女の子も無事ですよ。
けれど、海での無茶は決してしないでください。今回はよかったが、大きな事故の元になります」
逞しい体つきのライフセイバーが、淡く微笑みながらも真剣な眼差しであかりを諭す。
「……本当に、ありがとうございました。
今後は気をつけます」
あかりは深く頭を下げて礼を述べた。
「……」
そして、それとなく周囲を見回す。
だが、さっき見た気がしたリュウらしき面影の人物は、どこにも見つからない。
あかりは、ふうっと重いため息を漏らした。
*
自宅まで送ってもらい、両親が帰ってくるまで家で付き添ってくれるという友人たちの心遣いを有り難く辞退し、あかりは自宅のドアを締めるとしっかり鍵をかけた。
鍵をかける指が、小刻みに震える。
スマホの時計は、午後3時を少し過ぎた所だ。
両親の帰宅は、いつも夜遅い。
——しっかりして、私。
このまま、部屋でひとりで1日が終わるまでじっとしていれば……絶対に、何も起こるわけがない。
大きく一つ深呼吸をして、自分の部屋へと向かう。
階段を半ばまで昇ったその時——
不意に、くらりと大きく視界が回った。
「——あ……」
気づけば、自分の身体が大きく後ろに傾き、背中から階段を転げ落ちようとしている。
——この姿勢は、だめだ。
きっと、後頭部や背骨、腰を強打して——
瞬間、そんな冷静な思考がなぜか巡る。
最早身体の落下をどうすることもできないまま、あかりは諦めかけた。
激しい勢いで階段に身体を打ち付けられる瞬間——あかりの背が、何か柔らかいものでボスッとキャッチされる感覚が走った。
それは、背負っていたリュックだった。
中にはそれほど衝撃を吸収するものなど入っていないはずなのに——なぜかそれは一瞬、大きく柔らかいクッションのような感触であかりの身体を守った。
派手に転げ落ちたが、手足の打ち付けた箇所が強く痛むだけで、骨折や出血など大きな怪我はどこにもないようだ。
「——っ……」
あかりは、痛む身体をゆっくりと起こす。
そして、今度こそ這うように慎重に階段を登りきると、四つん這いのまま廊下をそろそろと進み、ようやく自室へたどり着いた。
静かにドアを閉める。
そして、身体の痛みを堪えつつドレッサーの椅子に座った。
底知れぬ恐怖が襲いかかる。
自分は、どこでどう過ごしていたとしても——やはり今日、命を落とす運命なのだ。
「——リュウ。
お願い。
もう一度、出てきて……」
気づけばあかりは鏡に向かい、青ざめた顔で必死にそう呼びかけていた。
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