だけどやっぱり
静かで誰もいない職場は結構落ち着く。
ベンチャーに入り立ての頃を思い出す。
あのときはよく深夜割り増しつくぎりぎりまで残業してたっけなぁ。
お気楽に目の前の実験をただひたすらやるだけでよかった。
でもいまや、自分の実験より優先させなきゃいけないものがあるんだもんなぁ。
坂下君の報告書は悪くはなかったが、直接紙に出力できるほど完璧ではなかった。
変更の記録を残し、数ヶ所訂正、コメントをいれる。
クラウドに別バージョンとして保存っと。
あとは、業務日誌を書いたら帰れる。
坂下君のスケジュール管理は注意して今後見ていったほうがいいな。
ユキちゃんは……まあ、平常運行か。ミスをマイナスとしても、彼女が職場に与えているプラスの影響ははかりしれない。
「坂下君もなぁ、ユキちゃんにもう少しマイルドになってくれないかなぁ」
坂下君だけだ。あんなにユキちゃんに対してピリピリするのは。
ちょっと立場の難しい同期なせいもあるのかもしれないけれど、なってもらわなきゃ困る、マイルドに。
職場の雰囲気が悪いのは嫌いだ。
私は誰かが不機嫌に仕事をするだけで、全体の能率が下がると思ってる。
仕事するならポジティブに。
もしくは回りにポジティブに見えるように。
かたり
エンターキーを叩く。
頭の中が整理され明瞭になった。
業務日誌に一日の仕事をすべて記すことで、私は仕事から解放される。
バックグラウンドではやっぱりいろいろ考えてしまっているけれど、それはもう諦めるしかない。脳みそが勝手にやってることだ。
「さてと、帰るか」
荷物をまとめ、部屋を後にする。
扉の横の小さなパネルにカードキーを通してロックをかけ、警備開始のコードを打ち込む。セキリュティは次第に厳しくなってきてて若干操作は面倒くさい。
「今日もお疲れ様でした」
会社が入っているビルを出ると、夜の始まりの風が吹いていた。ぶるりと震える私。
時刻は7時ちょっと前。
一時間程度の残業なんて昔はないと同じと思っていたけれど、少しずつ少しずつ体に響くようになっている気がする……なんてのは考えすぎかな。
最寄りの駅に勝手に向かっていく足。
もう慣れた道筋。人さえいなければ目を瞑ってでも帰れるかもしれない。
家までは電車に乗って30分ほどかかる。
時間の代わりに本数が多いのが今住んでいる物件の決め手だった。本当は会社の近くに住みたかったけど、さすがにこの辺りは土地が高すぎて断念したのだ。
二人暮らしとはいえ、収入はアレだからね。
電車に乗る直前に彼にメッセージを送る。
『仕事終わった。今電車乗る』
寂しい、待ってるよ!
ウサギが泣いてるスタンプ。子どもじゃないんだから、泣かないでよ。
選定にくすりとしてしまう。
『帰るから、泣かずに待っててよ』
『はーい』
スタンプじゃなく言葉で返ってきて、私はちょっとだけ口を尖らせる。
スタンプ使うのは手抜きとか言う人もいるらしいけど、私はスタンプの方が選ぶの大変で難しいと思ってる。
だから、実は楽しみだったりするのだ。
会話が途切れたので、ニュースサイトの巡回へ。
なんか、興味深いニュースは……うーん、なにもないかな。芸能ニュース、政治のニュース、科学技術に関してなんでもかんでもとりあえず頭にいれとく。
どこでなにが役に立つか分からない。情報収集はいつだって怠らないのが私の主義だ。
そんなこんなであっという間の30分。私は自宅近くの駅についた。
駅から家は徒歩5分ほど。
電車に乗ってるより、この5分の方が長く感じる。でもなんとか歩かなきゃなぁ。
彼が待ってるんだから。
そう思って気合いをいれ直していると。
「のんちゃん!」
聞き覚えのある、安心する声。
私は声をした方を向く。
彼を視界に納めたとたん、私の社会人の仮面がポロポロと剥がれていく。
「ユウ君!」
私は小走りで駆け寄る。
私は、仕事が嫌いじゃない。
むしろ、好きだ。
だけど、
やっぱり。
頑張らないで自分自身でいられる時間が一番大事。
そう思う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます