少しの残業も必要かな

「主任、終わりました。終わりましたよ!!」


午後3時半。

坂下君が声をあげる。


「よし、こっちも終わった。じゃあ、退室してまとめだね」


私もちょうど担当分が終了したところだった。

持っていたサンプルをシャーレに戻し、パラフィルムという伸びるテープのようなものでシャーレの封をする。

実験をやりはじめてからの坂下君は正直集中力も出来も半端なくて、私がいなくってもよかったんじゃないかと思ったが口に出さない。


「はい、主任のおかげです!」


うん、そう思いながらも、それでも私のおかげだろうと心の中で胸を張る。部屋に怒鳴りこんできた時の坂下君の精神状況じゃ、こうはいかなかっただろうしね。


「とりあえず、データ、雪原さんに送って、先に整理してもらっておいたら?」


私は部屋のすみにあるスキャナーを指差す。これに通すと、その実験・試験の閲覧権限を持っているメンバーに自動で共有されるのだ。

ちなみに、プリンターはインクなどの出力によって部屋が汚される可能性があるので持ち込み不可だ。


「そうですね、そうしましょう」


坂下君は素直に指示に従う。

これでユキちゃんがうまくやってくれれば、二人の関係に禍根が残ることはないだろう。

全く、上司っていうのは気を使うな。

平社員の時は考えも出来なかった細かい労働が多い。


「後片付けはやっとくから、坂下君先に出ちゃって報告書のまとめにとりかかってて」


「はい、ありがとうございます!」


ばたばたと歩いていく坂下君。

実験が無事終わって機嫌が良さそう。

今なら一言言えるか。


「坂下君、クリーン実験室の中は穏やかに歩くように」


「あ、はい、すみません。また忘れてたや……」


私の言葉でそろーり、そろりの動きに変わる坂下君。続けていくんだぞ、その動き。

私は彼を見送って、器具の片付けにかかる。


「普通は部下の仕事よなぁ」


一人になって、思わず言葉が漏れる。


集中していた坂下君の机回りを見て、小さくため息。

仕事は早いのだが、片付けるときのことを考えていないぐちゃぐちゃとした配置だった。


「まあ、やるっきゃないか」


洗い物を移動させるためのかごを手に取り、私は片付けを開始した。



午後4時半頃。

1時間程かけて片付けを終え、ミルクティーのペットボトルを片手に私は部屋へと戻る。


入ると、ユキちゃんも坂下君も集中しているようで、私が入ってきたことに気付いてないみたいだ。


デスクに座って、先程ユキちゃんにもらっておいておいたチョコレートを口にする。

カカオ70%。まだまだ甘さが残るそんなチョコレート。

ほろ苦さと甘さを楽しみながら、私は今日実施予定だった実験をずらすためにスケジュールを組み替えていく。ああ、そうだ、コンテストの申込用紙も書かないとなんだった。


スケジュール表をいじりながら、部屋の中に耳を済ませる。すると、スペースが区切られていても意外とみんなの状況はわかる。

ユキちゃんのタイプ音が止まってからもう5分くらいがたっている。

クリック、スクロールする音。

どうやら、忠告通りよく確認しているようだ。

ふーっと、ユキちゃんが小さく息をはく音が聞こえた。


「坂下さん、データ出来ましたので送りますね」


「ん、待ってた。送って」 


「はい、わかりました」


坂下君のちょっと上からな態度に私は若干イラっと来るが、ユキちゃんはそれくらい飲み込める土壌のある子で、静かに返事をする。

全く、すごいよユキちゃん。

これでミスがなきゃ完璧なんだけどなぁ。


「よしっ、これを入れ込んで。あとは考察だな」


はい、早く書き終わっておくれ。

それ、私の承認必要なやつだよね。

そう思いながらミルクティーをごくごく。甘い。タピオカも入ってればいいのに。専門店のあれは、カロリー高いらしいし。


メールを一通り返し終わり、少し手がすいたがこの状況では集中できる作業は始められない。

私は先程部長からもらったパンフレットのコンテストのHPを検索する。

ふむふむ、コンテスト締め切りは二ヶ月後で、レポートや写真、可能な限り研究や仕事のデータを提出。コンテスト受賞者は、その内容を授賞式で発表するらしい。

えー、この授賞式って予定空いてたかな、うん、空いてるわ。空いてなかったら出さない口実になったかなぁ。


「すみません、これ確認お願いします」


私がコンテストのHPを見つめていると、なぜか紙に出力した報告書を坂下君が渡してくる。

クラウド共有してるから、一言いってくれるだけでよかったのになぁ。

私はそう思いながら表情を変えずに受けとった。


「お疲れ様。確認して直しがあったら明日言うね。朝には直しがあれば出来るようにしておくから」


「はいっ、失礼します!」


時刻は6時。

うちは9時6時定時だ。

つまり今が残業との境目。

やっぱり手伝って正解だったね。


「お疲れ様ですー」


坂下君が荷物をまとめて帰っていく。


「お疲れー」


私は手をひらひらとさせて彼を見送る。

さてと、坂下君の報告書確認しなくちゃ。

紙データを横におき、共有データを確認する。


「先輩、残業になっちゃいますね。お疲れ様です」


差し出されたマグカップ。

もう帰る準備を終え、頭に可愛らしい帽子を乗せたユキちゃんがココアを入れてくれたようだ。


「私のミスのせいで、すみません」


本当に申し訳なさそうにするユキちゃんに私は微笑みかける。

わかってるなら、もうそれで十分だよ。


「次また気を付けよう。私の残業はさ、そもそもが部長の呼び出しで確定してたから。ココアありがと、さ、女の子なんだから夜道は危ないよ、帰った帰った」


いつまでもしょんぼりして部屋に残りそうな彼女を私は立ち上がって追い出す。


「あっ、お疲れ様です、また明日もよろしくです」


「よろしくね」


扉を閉める直前に挨拶。

空気を読んでちゃんと帰るユキちゃんを確認して、私はデスクに戻る。


眼鏡をかけて、ココアを一口飲み戦闘体勢。


さあ、ちゃっちゃと終わらそう。


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