現場をうまく回すには
私は印刷したデータ用紙を手にとってクリップボードに挟む。
そして、つけっぱなしになってしまっていた自分のPCをスリープした。
安全管理の問題から室内にいるときも使ってないときはスリープにした方がいいななどと思いながら、いそいそと手を動かし、実験室に入る準備を整える。
「それじゃ、ユキちゃん。私クリーン実験室の方にいるからね」
部屋を出る前に伝える。
上司から部下への報連相も現場を回すためには必要なことだ。
「了解です!」
ユキちゃんの返事を確認して、私は部屋を出た。
廊下に設置されている時計でもう一度時間を確認し、今日の残りの予定を計算する。自分の実験を明日にずらしても、どうにも残業になりそうな予感だった。
「遅くなるかもだし、連絡しといた方がいいか」
胸ポケットからスマホを取りだし、一通メッセージを送る。
『今日、遅くなるかも』
送ってすぐに既読がつき、スタンプで返信がくる。
了解、と敬礼するウサギのキャラクター。
そしてすぐに次のスタンプが。
料理をつくって待ってるよ、とニンジン入ったシチューを掲げるウサギ。
そのスタンプに私の頬が緩む。
『今日の夕御飯はシチュー?』
軽口を叩く私。
『いや、可愛かったからこれを使っただけ。ハヤシライスだよ』
夕御飯はちょっとだけシチューと似てた。
『楽しみにしてるね』
私はそう送って携帯を閉じる。
彼とのやり取りに少しだけ心が和んだ。
「よしっ、がんば……いや、やっていこう」
危うく自分から言葉を口にするところで、私はちょっとはっとする。和むとすぐ、頑張ろうとしてしまう。
頑張りすぎちゃいけない、心をなごませて余裕を持たないと、なにか起こったときに対応できない。
もう学生でも部下のいない身でもないんだから、倒れられないのを忘れちゃいけない。
自分を戒める。
そうこうしているうちに、クリーン実験室の前へ着いた。
クリーン実験室は、外の環境とは違い、ほこりや不要物、菌を極力持ち込まないようにスペース的にも断絶され、しっかりと空調管理がされた実験室である。
そんなスペースなわけで、入るのもなかなか一苦労だから、坂下君が怒りたくなるのも頷けるのだった。
まずは、実験室前の着替え室でスマホなどの持ち込みできないものを自分のロッカーに入れる。そして、スーツから仕事用のユニフォームに着替える。
みんなはいつも一日こっちを着ているが、私は取引先にいったり、あちこち発表にいったりといろいろあるので通常スーツだ。着替えるのはなかなか手間。でも、衛生管理のためだから仕方ない。ロッカーに鍵をかけ、次のスペースに向かう。
次のスペースでクリーンウェア、顔の一部最低限以外体が全部隠れるようなツナギを着て、服に付着した埃が外に出ないようにする。テレビでよくみるような白いごわごわのやつ。ガスマスクはなし。普通のマスクを着用し、髪の毛が外に出ないように調整する。手袋にクリーンブーツもはく。最後に鏡で抜けがないかチェック。
クリーンウェアをコロコロでお掃除して、風のでる部屋を通ってやっと入室。
ここまで10~20分と結構かかる。
「坂下君、資料忘れて行ったでしょ」
入室すると虚空をボーッと見つめる坂下君がいた。どうやらひたすら、私と資料の到着を待っていたらしい。
全く。気付いたんなら連絡してね? 私も気付いてなかったらどうするんだ。
「あっ、やっぱり主任ならもってきてくださると思ってました」
あのね、という言葉を飲み込んで私はクリップボードを渡す。
「とにかく急ぐよ、これ取引先に試験頼まれてるやつでしょ?」
「はい、明日結果提出なんです」
……明日提出のやつをどうして今やる? 待ってスケジュール的に余裕作ってたはずだよね。この案件あるから仕事ふらなかったはずだよね。どうしてまだ終わってないんだ。それに最初の期限は来週までだったはず。スケジュール変更の報連相しようよ!
いつも期限までには必ず終わらせてくるから信頼して任せてたけど、ちょっと坂下君の進捗管理はしっかりした方がいいかもしれない。
私はマスクの下で唇を強く噛む。
この格好は表情が見えないからいい、少しだけ労働を怠けられる。
「そっか、じゃあ、急がなきゃだね。ぱぱっとやっちゃおう!」
言いたい言葉を飲み込んで、明るく言うと坂下君は同調して楽しそうに返事をする。
オーケーオーケー。
乗ってる感じだ彼。
彼は波が激しい人材だからうまくのせて使わなきゃいけない。
「主任は8~12までの検体の試験をお願いできますか? 試験aからcまでなんですけど」
坂下君が分析指南書を差し出しながら言ってくる。私はそれを確認しながら、あー、この会社入りたての頃にこの試験よくやったなと思い出す。
にしても、本当は時間かからないはずだよな、これ。
「了解、終わったら声かけるね」
駄目だ、考えてる時間勿体ない。
とにかくやっちゃおう。
取引先の信頼を失うのは一番やっちゃいけないことだから。
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