乗りきっていこう
私はお茶をいれにいったユキちゃんを横目に、坂下君に指示を出す。
「さっき言ってた資料、送ってくれる?」
「は、はい。主任お手数をお掛けしてすみません。すでに実験室へといかれているのかと思ってて」
私はその言葉に苦笑いを浮かべる。本当はその予定だったのだ。
というか、私がいなかったらずっとユキちゃん相手に怒鳴り散らしていたんじゃないかね君は。
「まー、それね。部長からちょっとしたご推薦を頂いて」
「部長からですか! さすが主任、すごいですね」
坂下君のその言葉に私は微笑みを浮かべる。
彼はある意味ユキちゃんと対極的だ。
単純に仕事はできるが、相手の言葉の裏にあるものを読み取れない。
まあ、ここは会社の中の研究部門にあたるところだから、それでもなんとかやっていけてるし、将来それなりの出世は出来るだろう。彼は自分にあった選択をしたのだ。
上司である私はなかなか辛い部分もあるけれど。
「送ったらちょっと、あっちで三人で確認してみようか」
私は坂下君に向けて提案する。
ここで拒否られたら面倒くさいぞ。
「あ、はい、わかりました」
よかった、素直で。
ユキちゃんがこういう話から逃げることはないから第一関門突破。
私は自分のデスクに戻り、ノートPCを手にする。
あっちで、とデスクから場所を移したのは、私たち研究のこの部屋は、デスクが少し高い壁で仕切られていて、ミーティングには向かないからだ。
一人一人がそれなりのスペースを持てるように、また集中できるようにと慮ったデザイン。
今回はまああれだが、普段は実験結果をまとめるために集中したり、論文を広げたりするにはとてもいいのだ。
みんなのデスクの横にある、ミーティング用スペースの椅子に腰掛け、テーブルでノートPCを開く。
施設内はもちろんネット環境完備。
PCは起動も早く、すぐに使える環境が整う。ほんと好き、このメーカーのPC。
「送りました!」
坂下君のデスク方向から声がして、彼はバタバタと音をたてながらこちらへやって来る。
「うん、来てる来てる。これね」
彼からのメールが新着の部分に表示される。
開けてみると本文はなく、エクセルのファイルがひとつ。
普通人にデータを送る時は、なんのデータかわかるようにせめて件名だけは書くんだぞ、と思うがそれを注意してへそを曲げられてしまっても困るので黙っておく。
クリックしてファイルを開く。
私は集中するために、ジャケットのポケットから青い縁の眼鏡を取り出してかけた。実験データを見るのだ。本気でかからねばならない。
普通の人が見たらなんの数字か全くわからないだろうが、私は一応彼らの上司なわけで一瞬で内容を把握する。
それにしても見やすいエクセルだな。
私はいそいそと部屋の隅でお茶をいれているユキちゃんをちらりと見る。
測定数値と計算値のセルが色分けされていて、計算値のセルには編集できないようにロックがかけられている。項目も単位もしっかりと表示されていて、わかりにくい部分はない。
一見完璧に見えるが計算式の間違いにすぐに感付く。
「どうぞっ」
ちょうどいいタイミングでユキちゃんはやって来て、私たちにお茶を差し出した。
お盆に乗った、日本茶と紅茶。
私と坂下君のお好みの2つ。
先程まで怒り心頭だった坂下君もいくぶんか落ち着いたのか、どうもといって静かに日本茶を受け取っている。
「ちょうどよかった、ユキちゃん一緒に見てくれる?」
「はいっ。私、どこを間違ってたんでしょうか」
ユキちゃんも椅子に座る。
私は坂下君がお茶の一口目を飲み終わり、ユキちゃんが椅子中落ち着くまで一瞬待つ。人間、準備ができてないと聞きにくいものだ。
「とりあえず直すために一旦ロックはずすね。ほら、ここ。参照セルを固定しなきゃいけないのに、マークいれ忘れてて全部ずれちゃってる」
「うわー」
ユキちゃんは自分のミスにやっちまったという顔をする。
「ふんっ、セルをカラフルに塗ったりとか余計なことばっかりしてるから、大事なところを忘れるんだ。お前のデータ作成ミスのせいで実験室入ってすぐ戻るハメになったんだ。おかげで残業だよ、残業」
怒りが再燃してきたのか、声を荒げて言う坂下君。うん、でもなぁ、それ全部をユキちゃんのせいにするのは間違ってると思うんだよなぁ。
小さく息をはいて、なるべく冷静であるように注意しながら私は言葉を紡ぐ。
「坂下君、確かに数式の入力をミスしたのは、雪原さんが悪いよ。でもさ、坂下君は実験室の中でこのデータをもらったわけじゃないよね。外にいるうちに確認して気付けたはず、じゃないかな?」
私の言葉にうっと坂下君が唸る。
そうなのだ、即退室の件はユキちゃんのみに責を負わせることじゃない。人間だから誰にでもミスはある。まあ、ユキちゃんは多い方だけど。
そのユキちゃんからもらった資料を、疑いも確認もせず、そのまま持っていった坂下君には少なくとも全面的にユキちゃんを責める権利はない、そうではないだろうか。
「でもっ、こいつのミスのせいで実験間に合わなくなって残業することになるんですよ、責めてもいいじゃないですか」
わー、青いな。
真っ青だよ!
私は心の中で大きく溜め息をつきながら、ユキちゃん入れてくれた紅茶を一気に飲み干す。
自分は悪くないと言いたいのはわかるけど、それは得策じゃないんだよなぁ。
でも、正論ばかりを言ってて論破しても仕事は回らないし、部下の士気も下がる。
それに坂下君は、頭が冷えれば言われたことはちゃんと認められるタイプだ。
ここは、あれだ、大人の対応が必要だな。
「大丈夫、坂下君は優秀だから、これくらいの遅れで残業にならないって」
「でも……」
坂下君が食い下がってこようとするが、私は言葉でそれを遮る。
「それに、私も手伝うからね」
漫画やアニメだったらウィンクしてるところだ。
私の言葉に坂下君の顔に笑顔が広がる。
「本当ですか、ありがとうございます! 僕早速中に入って準備してますね」
またもやバタバタと出ていく坂下君。
直した実験データは必要ないのかね。私はさっと数式を直して、プリンターへと出力する。
「先輩、ただでさえ忙しいのに、私。ごめんなさい」
しょぼんとしているユキちゃんに私は微笑みかける。半分本心、半分感情労働をしながら。
「ユキちゃんもよく頑張ってるよ。でも、人に送る前にもう一度確認しようね。あと、ああいう見やすい操作しやすい表はグッドだよ。懲りずに続けていこうね」
彼女の顔にぱっと花が咲く。
「はいっ、先輩ありがとうございます」
そういって頭を下げ、彼女も自分のデスクに戻っていった。
ふーっと、私は聞こえないように息を吐き出し、眼鏡をはずす。ユキちゃんの空気を読む力も、私の本気の労働は見抜けない。
全く、二人を足して2で割ったらちょうどよさげなのに。
時計を見る。
時刻は2時。
自分の実験は諦めるしかないかなぁ。
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