花とメイドと宮廷画家
「ふ、フローレンス様、どうしてこんなところに」
今日の主役が裏庭で油を売っているなんて。 ──まさか、この華やかな日に1人で、絵を?
「晩餐会まで時間がある。いいじゃないか、少しぐらい」
そんな、開き直ったように言われても……。
私ではない誰かが着付けた彼の燕尾服は、池のほとりの
フローレンスは私の帽子を眺めながらぽつりとこぼした。
「──前にも、こんなことがあった」
呆れていいのか驚いていいのか言葉をなくしている私に帽子を手渡して、彼は珍しく饒舌に話し始める。
「小さな女の子の話。スカートをつまんでころころ転がる帽子を必死に追いかけていた。帽子は偶然、僕のイーゼルに引っかかってリボンを揺らして……けれど結局、風にさらわれて海まで飛んでいってしまった」
エスコートされたのは、池のほとりの四阿の中。花木に囲まれ屋根まで緑の蔦がつたわり、陽射しを浴びて白く輝く小さな空間。
促されてベンチに座ると、彼は遠い目で外の景色を眺めている──ほんの少し口元に笑みを浮かべながら。
「その女の子は泣きに泣いてさ。地面にうずくまって動かなくなっちゃったんだ。ウェーリの冬の海は凍えるほど寒いっていうのに。まわりに大人はいないし、途方に暮れた僕は、しょうがないからその子の隣で絵を描き続けた。凍死されたらさすがに寝目覚めが悪いかなって」
唐突な昔語りだけど、彼の語る
あの港はいつもそうだった。子どもが立っていられないぐらい強風の日もあるのだ。そういえば私も小さい時に、お気に入りの帽子を飛ばして失くしたことがあった。
「泣き止んだその子が隣にいた僕のことにやっと気づいて、もじもじとキャンバスを覗き込んで来たんだよ。それで、ぱっと表情を変えたんだ」
微笑む彼の瞳が、きらきらと光っている。
風は花の匂い、太陽は光の筋を私たちの間につくる。パラパラと音をたててめくれる彼の古いスケッチブック。そこにはたくさんの笑顔があった。幼い少女の、満面の笑顔が。
「『わぁ、綺麗』って、僕の絵を見て笑ってさ。ただそれだけだったんだけど……その時のことを、ずっと覚えてる。名前も知らない女の子だったんだけど」
「……それ、は……」
「僕より3つ4つ年下くらいの子だった。それっきり会うことはなかったんだけど、たぶんあれが僕の原点なんだろうなぁって」
──まさか。
私は息を飲んだ。
まさか、まさか。
「あの子が大きくなったらどんなだろうと思ってあの『花と乙女』を仕上げてみた。……今度はちゃんと帽子を捕まえてあげられてよかったよ」
そう言って私の頭に
私の顔は、今や真っ赤だ。
「作り話のような本当の話。ウィリーあたりが聞いたらすぐ記事にされてしまいそうだ。……だから、秘密だよ。さてと、そろそろ行こうかな」
彼は立ち上がると、燕尾服を腕に抱えて埃を叩いた。
「えっ、ど、どちらへ」
「今朝はなかなか筆が乗らなかったんだけど、今なら描けそうだなぁと」
眩しそうに太陽に手をかざし、こちらを振り返って手を差し伸べる。
「そうだ、もうひとつ。忘れるところだった。今朝手紙が届いたよ。これ」
今度はただの真っ白い封筒を手渡される。差出人すら書いていない。
封を開けてひっくり返すと、手のひらにパラパラと細かい粒のようなものと、蝶のカードがひらりと落ちた。今日のための特別な招待状──宛名を見て気づく。
「これ、……もしかしてロッテからですか?」
「そう。僕と先生のところに同じ手紙が届いたんだ。先生は……何も言わなかったけど、この種をとても大事そうに見ていたのが印象的だったな」
「この小さいの、種なんですね。何の花の種でしょう? ウィリーに聞けばわかるかしら」
「それもいいけど、わからないまま植えてみようかなと思って」
フローレンスはそう言うと、アトリエの方に向かって歩き始めた。
「あのあたりに植えて、観察絵日記でもつけてみる?」
「次の季節が楽しみになりますね、何が咲くかわからないなんて素敵!」
「……君も一緒に世話をしてくれるだろう? この先もさ」
振り返りもせずに彼は言う。
風が吹く。花が舞う。赤の、白の、ピンクの、小さな花弁が私をくすぐって飛んでいく。
立ち止まりかけた私の背を春の風が強く押す。いつも私に色とりどりの気持ちをくれる、彼のところまで。
口を開いて、閉じて。私は心からの気持ちで、彼の背に向かって声をあげた。
「……──はい! フローレンス様」
花とメイドと宮廷画家 盗まれた乙女の肖像 絵鳩みのり @tsumugi_konbara
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