馬車に揺られて二人きり 1

§


 これ以上の面倒はごめんだとばかりのリリーに、「もういいから」と囁かれたのは覚えている。気が付けば馬車に押し込められていた。


 王室御用達の馬車は、緑と優美な静寂に満ちたペンタイン通りを過ぎ、シティの街中へと入る。


 向かいに座るフローレンスは、何も言わない。


 怒っているのか、蔑んでいるのかもわからない。慣れない馬車の揺れを感じるたび、私は体を縮こませた。こんなことでもなければ一生乗ることのない高級な座椅子ですら、今の緊張をやわらげることはできないのだ。


「……あの絵を、見に来たんだろう?」


 足元ばかり見ていた私は、彼がこちらを見ていることに気づいていなかった。不意に声をかけられて、馬車の揺れといっしょに飛び上がるほど驚いた。


「どうだった?」


(ど、どうって……)


 ──綺麗だった。少し哀しい感じがした。


 ぱっと思いつく簡単な感想を飲み込んで、私はおそるおそるフローレンスに尋ねた。


「あの、怒って、いらっしゃらないのですか……?」

「怒る? 何を?」


 表情の変わらないフローレンスを私は懐疑的に見つめた。本当のほんとうに、何とも思っていないのか。それはそれで、あまりに私に対する興味が無さすぎるのではないだろうか。


(うう、どう言われたいのよ、私……)


「だって、勝手に後をつけたりして……」

「いや、そこは別に。どうせなら一緒に来ればよかったんじゃないか、とは思ったけど。君にも仕事の都合があったんだろう? 先生の絵が気になる気持ちはよくわかるから。世に隠された名作のにおい、と思えばなおさらだ」


(い、いや、そうじゃないんだけど……)


 どうやら彼は本当に、私が後をつけてきたのは、乙女の肖像画を見るためだと思っているらしい。

 まさか未亡人とフローレンスのただならぬ逢瀬を妄想してしまった結果なのだとは言えず、私は無難に相槌をうった。


「あのクレール家の絵は、ブライト伯爵家から盗まれた『乙女と四季』なのでしょうか?」


 私がずばり本題を尋ねると、フローレンスは腕を組んで、「いや、」と静かに首を振った。


「四季が連作であるなら、4枚並べて一つの作品であってもおかしくないけど――あの色と香りでは、納得はできないかな」

「色が、なにか……? 綺麗な花でしたけど」

「先生の愛用した画用液リンシードオイルの黄変の仕方が、どうにもわざとらしく感じる」


 今しがた見てきた乙女の肖像を思い出すように、フローレンスは宙を眺めながら、長い睫毛をゆっくりと瞬いた。絵のことになると途端に饒舌な彼は、すらすらと自らの見解を述べ始める。


「あの絵について気になるのは、構図や、タッチの問題じゃないんだ。作られた時期が合わないように思う。30年近く前の作品にしては、表面に傷ひとつなかったし。ワニスの劣化も感じられない……結論としては、先生の絵かもしれない。けど、例の『乙女』の肖像と言うには新しすぎる、と僕は思った」


 もしかしたら上から加筆してあるのかもしれない、とフローレンスは言う。古い黄ばみに見せかけているが、乾性油特有のにおいがよく残っているし、豚毛の平筆の筆跡がまだ新しい気がするのだそうだ。


「そう思うと、事件性はあるかな。上から塗られている部分だけ剥いでみればわかるかもしれない。でも今のままでも良い絵だと思ったし、まずは先生に尋ねるのが良いだろう。そもそも誰も見たことがない乙女、というのが問題だった。もう覚えた。あの一部分だけでも、先生の前で再現してみせよう」


「し、素人目にはまったく理解できない感覚ですね……ではあの花を生ける乙女は、どなたか別の作者かもしれないんですね。夫人はきっと残念に思われるでしょうけど、あのままあのお家に飾るのも良さそうですね。少し寂しいお家でしたもの……」


「…………花を、生ける?」


 フローレンスが怪訝そうな顔でこちらを見た。


「えつ!? あ、もしかして違いましたか?」


 私は慌てて、顔の前で大きく手を振った。たしかに、『花を生ける乙女』というのは私の勝手な妄想だ。偉大なる未来の宮廷画家の前で素人の解釈を語ってしまったのは2回目だ。恥ずかしさで、顔にどんどん熱が集まってくる。


「わ、私にはそう見えて……あの、でもブライオニ―荘のメイドも『花を摘む少女』の絵だって言ってました。私ったら見る目がないのかな、あははは……」


「……どうだろう。俺も、少女は花を手折っているのだと思ったが」


 短い花の命と、少女という時間の短さを掛けた、儚くも美しいものという感じを受けた、とフローレンスは言った。なるほど、そう言われてみれば、摘む、が正解なのだと納得させられる。


 宮殿の美術室をはじめ、それなりにいくつもの絵を見てきたつもりだったけど、正しく観る才能というのは別物らしい。また主人の前で醜態を晒してしまったと思うと気が滅入る。宮廷画家の専属として、失格かもしれない。


 車内の沈黙を物ともせず、ガラガラと大きな音を立てて馬車は走り続ける。半開きの窓のから春の風が吹きこんで、2人の髪を揺らしている。


「そうか、わかった」


 レイはふと顔を上げて、真っ直ぐ私を見た。


「君は、誰かのために、花を生ける人だからか」


 私は言われたことが理解できなくて、なんとも返事ができずにいた。フローレンスの伏せた睫毛が瞬きをする。


「絵の見方は人それぞれだ。美しさにはある程度の法則はあるけど、それがすべてじゃないし、描き手の思惑を読み取るのが正解とも思わない」


 彼は私に向かって、淡く微笑んだ。


「君がそういう風に解釈した、ということを、僕は好ましく思うよ。優しさ、健気さ……君が、そういう気持ちのある人間だということだろう」


 私は「ありがとうございます」と小声で返すので精一杯だった。滅多に見ることのできない穏やかな笑顔を、直視できなくて。


 それ以上、彼から話しかけられることはなかったし、私もさっきとは違った気持ちで足元ばかり見ていた。


 かけられた言葉を、何度も何度も反芻して。胸がいっぱいになるくらいに、繰り返し。


 薄く曇りがちな雲の隙間からさしこむ陽光が、馬車の中をもきらきらと輝かせているみたいだ。晴れ間につられるように、私は外を見た。


 街路樹や、古く伝統ある建物たち──美術館や、大学や、クル川沿いの公園──城に仕えるメイドたちがほとんど訪れることのないシティの中央通りを、馬車は軽快に走り抜けていく。


 空から柱のように降り注ぐ光は、馬車の行く先──麗しのシュインガー宮殿を照らしている。私は、輝く白亜の宮殿から目をそらした。


 早く帰らなければならないのに、たくさんの仕事を残したままこんなところにいるのに──。

 もう少し、馬車がスピードを落としてくれたら、と。

 誰の目もない、二人きりの小さな空間。


 メイドとしてではない気持ちで。エイミーという少女として、今、この人の前にいる。


 淡く染まる花のつぼみが、ほころんでいくような──ブラウスの胸元をぎゅっと押さえて、私はそのくすぐったさに耐えなければいけなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る