クレール家の不思議な絵 5

「いい? あんたの見たい絵は、入ってすぐ、奥の壁側なの。うまくやんなさいよ?」

「わかりました……」

「くれぐれも見つからないでよ? 面倒ごとはごめんだからね」


 私たちは、人気のない廊下でひそひそとささやきあった。


 リリーが応接間のトビラを控えめにノックする。ノブに手をかけたところでこちらを見た彼女に、私は小さく頷き返した。


「お茶をお持ちしました」


 リリーは、実によいメイドだった。

 まるでそこにいないみたいに静かにティーカップを並べ、気配を感じさせないまま部屋を出ようと踵を返しかけ──おもむろに布巾で、応接テーブルを拭き始める。


 どうやら、扉を開けておく多少の時間を稼いでくれているらしい。

 その間、私は息を殺して、部屋の中を覗き見ていた。


(あれが、噂の乙女……? 本当に腕だけだわ。花は写実的で綺麗だけどなんだか……少し寂しげなのね。『冬』だからかしら? それに、『花を摘む』? あれは、むしろ……)


「……僕の話の前にもう一度、どのようにこの絵を手に入れたかお聞きしても? たしか貴女からの手紙では、亡くなったご主人からの贈り物、と書かれていましたが。あれはどういった意味の」


 フローレンスの声だ。私は咄嗟に扉の陰に隠れた。


(いた! まだマダムとおはなし中なのね。……長くなるのかしら……)


「どう? 見た? 見たの? あたしの機転、よかったでしょ?」


 連れだって応接室から離れたところで、リリーが話し始めた。頬には朱がさし、目を輝かせている。彼女は、このちょっとした探偵役を気に入ったようだった。


「あ、うん。ちゃんと見えたわ。ありがとう、リリーさん」

「もう、何だよ。もっと感想はないの?」


 私の気のない返事が気に入らなかったらしい。今度は顎に手を当てるという芝居がかったしぐさで、リリーは唸った。


「っていうかさ、奥様、やっぱりあんたの雇い主にちょっと気があるんじゃない? 目を赤くして、椅子に寄りかかるみたいにしてしんみりしてたのよ。あの強気な奥様がさ。女の涙って、武器っていうでしょ? あんたのご主人は、そういうの大丈夫? 流されないタイプ?」

「え、ええ? わからないわ。……そう、マダムが。寄りかかって……」

「手とかは、握っちゃいなかったけどね。なんか真剣に話し込んでるみたいだった。ちょっと距離が近いっていうか」

「そ、そうなんだ……あのフローレンス様が、マダムを……お慰めに……」

「ねぇあの人、顧客には逆らわないタイプだったりする? だったらまずいよ、奥様の手腕から逃れられるかどうか」

「そ、そんなに、あぶない雰囲気なの?」


 慣れない廊下で、歩きながら話し込んだのがいけなかった。


「あっ!」


 リリーが叫ぶよりも早く、私は背中を何かにぶつけたことに気づいた。

 振り返った時には遅く、足元で甲高く音が鳴った。

 背後にあった飾りの花瓶が台座から落下して、無残に砕けていた。


 花瓶の白い破片と、バラバラに散った薔薇の花のせいで、この惨状が、たったいま起こった殺人現場のように見える。血の気が引いた。


「やだ! 私ったら、なんてこと……! ごっ、ごめんなさい……!」

「あ〜あ」


 リリーもそれ以上言葉がないようだった。水が絨毯に染み込んでいくのをしばし眺めて、「ったく、」とため息をついてしゃがみこむ。大きな破片をつまんで、抱えていた銀盆の上に載せた。


「あんたさ……普段から、こうなの?」

「そ、そんなことない、つもり……」

「まぁ、運はいいけどね。前までここには、派手な色使いの、どでかい壺が置いてあったんだよ。あれを割ったら、さすがにあんたの使用人人生も終わってた。ただ、今ウチにあるのは工場生産の粗悪な市販品ばかりさ。とりあえず片付けよ。箒持ってくるから、あんたも手伝ってよね」

「もちろんやらせて。ああもう信じられない……覗きの罰だわ、きっと」


「なんの音?」


 「あちゃぁ」と顔を歪めて、リリーが立ち上がる。私はいよいよ泣きそうになった。メイドにとって、女主人の声ほど恐ろしいものはない。


 ごめんごめんごめん!と目で訴え続ける私をスカートの裾に隠して、「申し訳ございません、奥様」と、リリーが頭を下げる。


「掃除の途中で、花瓶を割ってしまいました」

「そう。そこに、花瓶なんてあったのね。気づかなかったわ。……そうだった、ルノーの壺は、先週手放したんだったわね」

「はい、奥様」

「……新しい花瓶もの、あったかしら。なかったらなかったでいいわ。花なんて、どうせ枯れてしまうもの」

「はい、奥様」


 夫人の気配が去って、私はようやく息をした。


「ごめんなさい、リリーさん……」

「あっ、馬鹿!」


「何をやっているんだ?」


 今度こそ、私の心臓は止まった。よそゆきの格好をした麗しのレイ・フローレンスが、帽子とステッキを手に目の前に立っていた。怪訝そうに眉をひそめ、いつもに増して冷たい青い瞳が私を見下ろしている。


「ふ、フローレンス様……!」

「何故ここに、きみが?」


(み、見つかっちゃった……)


 私は再びその場にしゃがみこんだ。

 足元でパリンと、踏みつけた破片の割れる音がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る