クレール家の不思議な絵 3

§


 ノースウエスト・ウッドのペンタイン通りと言ったら、格調ある宅邸の立ち並ぶ静かな通りだ。


その中の一つ、ブライオニー荘の緑溢れる玄関に立ちつくして、今さらながらも私は躊躇っていた。


(ええと、まず、出てきた執事かパーラー・メイドに、偽物の紹介状を渡して、ウィリーが私を紹介して、偽の名刺を差し出して……)


 作戦とは名ばかりの、行き当たりばったりな設定を必死に頭で反芻している私とは違って、ウィリーは興味深くあたりを見回しながら、なんの躊躇いもなく呼び鈴を引っ張った。


「なんだか人の気配がないなぁ。こんなに新緑に囲まれてるのに、家自体は死んでるみたいだ。花の一つも咲いてやしない。庭師はどこに行った?」


 私は固く閉ざされたドアの前に立つ。口の中が異様に乾く。これでいいのかと自問するけど、後には引けないところまで来ている。


 扉が開くのを今か今かと凝視していると、ついに「どなたですか」と、扉の向こう側からくぐもった声がした。女性の声だった。


「あっ、あのっ、わたしっ、」


「どうもー、ウェストアーウェイ社から派遣されてきた者ですが。家庭教師ガヴァネスご紹介の件で、奥様にお目通りしたく」


「……家庭教師?」


(ああ、この感じ、絶対に怪しまれてる!)


 どっどっと激しく打ちつける心臓の動きは最高潮だ。私はぎゅっと胸の前で手を握った。そうでもしないと内側から心臓が飛び出してしまいそうな気がして。


「こ、こんにちはっ、わたくしエイミー・リンドベルと言います」


 緊張のあまり震える声が、うまい具合に家人の興味を引いたらしい。半分だけ開いたドアの隙間から、若いメイドが顔を出した。


 見事な赤髪とそばかすの散った白い頬をした、エイミーくらいの若い女性だ。地味で重たい深い紺色のメイド服を着込んでいて、エプロンで手を拭きながら「こんにちは」とだけ挨拶をした。パーラー・メイドにしては、ちょっと愛想のない人かもしれない。


 彼女は怪訝に眉を寄せて、ウィリーと私の全身を上から下まで眺めて言った。


「この家には、家庭教師を頼むような人間はいませんけど。どちらか別のお宅とお間違えでは?」


「いやいや〜ブライオニー荘といえばこちらですよね? はい、この子ね。エイミー・リンドベル、ウェーリ出身の16歳。性格が良いのはお墨付きってね。では、俺はこれで。あとはよろしくお願いしますよ」


 ウィリーにどんと背を押されて、玄関の中に押し込められる。ブライオニー荘のメイドは慌ててそこを飛びのいた。


「何、あんた……って、待ちな!?」


「えっ!? ちょ、ちょっとウィリー……!?」


 ウィリーはメイドの呼びとめにも応じず、さっと走り去って植木の向こうに姿を消してしまった。


(うそ、逃げたの!?)


 信じられない、こんな土壇場で。


 完全に逃げ遅れた私は、全身カチカチになって、視線だけうろうろとあたりを彷徨わせた。


 勢いで侵入したお屋敷は、見事なタウンハウスのつくりをしている。ただ、外観の割に中身は随分と物寂しい。


 玄関は妙に薄暗く、これでは客人を歓迎しているようには見えない。シュインガー宮殿と比べなくても、装飾品も絨毯も、最低限のものばかりに見える。


 お客様の目にとまる玄関ホールですらこの様子なのだから、この家は何か訳ありだと、入ってすぐに勘付いた。


(やだ、どうしよう。思ってたより、危ないところかも……?)


 閉まったドアの前で、顔を青くしている私を見て、メイドの彼女は乱暴に扉を開け閉めして外の様子をうかがった。


「ねぇちょっとアンタ、なに、あれは! これ、紹介状って……本物なのよね? ってあんた大丈夫?顔色がひどいじゃん。あー、もしかして、田舎から出てきたばっかりの『おのぼりさん』ってやつ?」


 メイドの彼女は私の全身を舐め回すように見て、話し始めた。


「……荷物はそれだけ? まさか、あいつに全部盗られたんじゃないよね?」


「い、いえ、彼は、ちゃんとした知人で」


「こういうのはきちんと仲介会社を選ばないと、ひどい雇先に押し付けられても文句言えないんだよ、あたしたちは。そういうのはしっかり自分で見極めないと」


「あ、はい……」


「親戚とか、ほかに行く当てはあんの? 可哀想だけど、ここだけの話、面接したってウチはこれ以上人は雇えないと思う。旦那様が亡くなってから会社が潰れて、家計は火の車なんだってさ。使用人もほとんど余所にやられて、今ではあたし一人だけ。だから仕事がたまってるんだ。悪いけど、帰ってくれる?」


 さばさばとした物言いで、厄介払いをするように彼女はドアを開けて促した。ぶわっと風が吹き込んで、薄暗い家の中に春の光が入り込んでくる。


「次からは、もっといい家を選ぶんだよ」


「いえ、あの、私は……」


 言葉に詰まってしまった私の肩をぽんぽんと叩いて、ブライオニー荘のメイドは私を外に促す。多少でも、私の身の上を心配してくれる、この女性。年も近いし、もしかしたら、うまくいけば話を聞いてくれるかもしれない。私は、動かなかった。


「あ、あの!」


 私は意を決して声を上げた。彼女は変わらず不機嫌そうに、黙ってこちらを見ている。


「実は、私……家庭教師じゃなくて、あるお家のメイドなんです……!騙してごめんなさいっ、今日ここに、私の主人が来ているはずなんですが!」


「はぁ?」


 彼女は頭をかいて、ちらりと後ろを振り返った。

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