晩餐会の夜 -回想 2-
燕尾服の内ポケットから取り出した懐中時計は、午前2時を示している。今夜の主賓の一人だとはいえ、そろそろ退出してよい頃合いだろう。
「フローレンス様」
レイの様子に気づいたらしいエイミー・リンドベルが、周囲に目を配りながら影のように近づいてくる。
「お部屋に戻られますか?」
「そうする」
「かしこまりました。着替えのお手伝いは必要でしょうか?」
「いや、いらない。脚と胃が重い」
「気分がすっきりするお茶でも、お持ちしましょうか?」
「いいよ。もう、すぐにでも眠れそうだから」
「大変お疲れ様でございました。急ぎの御用がございましたら、ベルを鳴らしていただければ私、飛んで行きますから。では、片づけに戻らせていただきますね」
(飛んで、か)
レイは誰が見てもわからないほど小さく微笑んで、忙しく去っていくメイドの背を見送った。本当に背中に羽が生えて飛んできそうだと思った。
エイミーと入れ替わりに壮年の執事がやってきて、レイを部屋へと案内する役を務めた。
「こちらが本日よりフローレンス様のご滞在されるお部屋でございます」
青の間と呼ばれる客室には、暖炉とキャンドルにすでに火が入っていて温かく、やわらかい光が満ちていた。
「エイミーが貴方様のためにと張り切って準備をしておりました。お気に召されましたでしょうか」
レイは曖昧に頷いて、テーブルの上に活けられた花に目をやった。街中の花壇でも見かけるような、控えめな野花。宮殿の壮美な迫力に圧倒され続けた夜には、その主張のなさがかえって目に優しい。
黒檀のマントルピースの上には、穏やかな田舎の風景画が、上品な額に入れて飾ってある。青の間というだけあって、調度品も絨毯も冬の晴天のような薄青色づくしだ。
着慣れない燕尾服をようやく脱ぎ捨てた。肩から力が抜ける。
「悪くはないよ」
「左様でございますか。大変お疲れでしょうから、明日の朝食はお部屋にお持ち致しましょう。のちほどエイミーが消灯に参りますが、お気になさらずベッドをお使いください。それでは、おやすみなさいませ」
執事が去って、レイはようやくひと心地ついた気分で息を吐いた。彼の言う通り、疲れ果てていた。
ただの画商の息子だった自分が、舞踏会に招かれるようになったと知ったら、画塾で彼を馬鹿にしていた連中はどんな顔をするだろうか。
(ましてや我らが女王陛下のおわす宮殿に住むなど、さすがに実感がわかないが……)
クッションがたっぷり積まれた長椅子に身をゆだねる。目を閉じてもまだ、磨き上げられた床に反射するシャンデリアの光が瞼の裏にちらつく。紳士淑女の語らう声、弦楽器の音がこだまして、そしてその中を飛び回る妖精の姿が思い出される。
初めての社交界で、何よりレイの関心を引いたのは意外にも、裏方の少女だった。
華美で豪奢な空間にいて、質素。
柱の影に凛と佇む、乙女の横顔。
どこかで見たような気もするし、気のせいかもしれない。ただ何でかはわからないが、目が離せない。
スケッチブックを取り出して、あの場でデッサンでもしてしまいたくなるような、妙な衝動。
あれを、描くとすれば──。
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