晩餐会の招待状 4
こうなると、彼の作品のファンである私は好奇心の方が勝った。
もちろん、専属になってから今まで、彼の制作過程を邪魔したことなど一度もない。
私は、きちんと立場をわきまえようとしていた。アトリエの中では影のように気配を消して、決して公私混同はしないように、と。
でもこうして未完成のキャンバスを目の当たりにすると、いよいよ今描いているものがどんな絵なのか気になる。彼の筆さばきをもっと近くで眺めて見てみたくて、うずうずしてしまう。
本当にこの人が、あの華々しい躍動を描いた張本人なのか。ちゃんと実感したかったのかもしれない。
迷いに迷って──結局、私はそっとフローレンスの背後に回り込んだ。彼が振り向かないのを良いことに、こっそりキャンバスを覗き込む。
そこにあるのは、一面の緑、だった。
素人の私ですらハッとする、鮮やかなグリーンの洪水。ありとあらゆる緑、そして光の点描。
(これは――)
「……森?」
「そう見える?」
思わずぽつりと漏らすと、フローレンスは珍しく嬉しそうに言った。「息抜きの落書きだよ」
彼がこうして穏やかな笑顔を見せることなどめったにない。淡く微笑む横顔を盗み見ながら、彼の話を聞いた。
「ウェーリには、幻想的な森が多くあるだろう? 苔むす森の王、オーク。その陰に控える若いブナの従者たち。落葉が敷き詰められた道を通って、王への謁見は特に早朝がおすすめ。白い霧が漂う小道は、本当に妖精が飛び出して来るんじゃないかと錯覚するほどだ」
「……フローレンス様は、ウェーリがお好きなのですか?」
彼が、ウェーリのありのままの自然を好んで多く描いてきたのは、今までの作品を見ればよくわかる。
湖と森、小川と麦畑、太陽と港町。彼が芸術勲章を授与されるに至った作品群の多くはそういった、後世に伝えるべき我が国の美しい風景を描いたからだ。
「ああ。僕の両親はウェーリ出身だから、そのせいかな」
それは知らなかった。彼はレイングランドの美術学校を卒業しているから、てっきりこのあたりの出身だと思っていたけど。
「シティに移り住んだのは10くらいの時さ。両親はここでは仕事を――画廊の経営や、美術品の収集をしていた。でも都会の生活は性に合わなかったみたいでね。小さい僕を連れて、しょっちゅう田舎に戻っていたんだ」
「ウェーリとレイングランドの往復を……? 海のむこうではありませんか」
「うん。船代も馬鹿にならない。おかげでうちはいつも貧しかった。それでも、幼い僕にとってウェーリの町は素晴らしいものだったよ。見渡す限りの麦畑と青空。陽光を反射して輝く小川、それから森と、領主のお屋敷。一年を通して、とても静かな村だった。シティとはずいぶん違うけど、僕はウェーリの家を気に入ってた。特に春の森と、冬の港を。水しぶきをあげて進む漁船がかっこよくて、雪交じりの海風に震えながら、必死に船影をスケッチしたものだ……」
その経験がのちに、『ウェーリの荒れた冬の港』を生み出すきっかけになったのだろうか。思いがけず、大好きな作品の裏話を聞けてしまった。しかも、本人の口から!
私は仕事中であるのも忘れて、彼の筆の動きに見入っていた。
新たに筆を持ち替えて、フローレンスは次に葉の陰影を描き込んでいった。極細の筆先が縦横無尽に踊っているように見えるのに、できあがってみればそれは計算しつくされたようなバランスで葉の輪郭を彩っている。みるみるうちに群葉が表れ、キャンバスの中には木々が茂った。
「すごい……」
私は心の底から感嘆して、呟いた。
我々の目には見えない、自然の設計図のようなものが彼には見えているのかもしれない。筆運びと配色に迷いがないのに、まるで森そのものを切り取って持ってきてしまったかのようなリアリティ。
フローレンスは筆を止め、完成間近のキャンバスの森をしばらく眺めていた。
「……僕は、貴族ごっこがしたくてここに来たわけじゃない。僕の描いた絵を必要としてくれる、一人でも多くの人に届けたかっただけだ。それなのに周りが騒がしくて肝心の創作の時間が奪われるだなんて本末転倒もいいとこだ──伯爵家の晩餐会は参加するよ。準備は君に任せる。たしかに僕より詳しいだろうしね。ゴルド先生のご様子も気になるし、行く価値はある」
それより、と一呼吸置いて、彼は目を伏せた。
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