晩餐会の招待状 3

 ぎゅっとハグを返しあい、二人そろって廊下に出た。「せっかくだから、久しぶりにみんなの顔を見て来るわ」と微笑むロッテとは、使用人通路前で別れた。




§



(ドレスコードの確認と燕尾服の準備と、靴磨きと、シャツとタイとハンカチのアイロンがけと、それからハットも、それからステッキ、それから……もうっ! もうもうもうっ)


 失敗は誰にでもある。ロッテばかりを責められない。けどやっぱり大変なのも本当で。


 フローレンスもフローレンスだ。晩餐会の招待状なんて、もらったらすぐに開封するべきだし、返事だって即送り返すのがマナーだ。なってない。主人がそういう「だめな人」だと高貴な人たちに周知されてしまっては困るのだ。


 それに今日の、ランチの予定だって。

 結局彼は、私に何にも教えてくれない。


(もうっ、これだから芸術家ってやつはー!)


 やり場のない怒りを抱えて大理石の廊下をずんずん歩いていく。人目のない裏庭は、ついにスカートの裾をつまんで疾走してしまった。


「フローレンス様!」


 バンと勢いよく扉を開け放つと、中の人は嫌そうに眉をひそめて振り返った。相変わらずここは油絵の濃い匂いが充満している。でももう、匂いが苦手なんて言ってはいられない。深呼吸して、肺までいっぱいにしてやる。あとは思いっきり吐き出すだけだ。


「ちょっと、フローレンス様! 晩餐会の招待状が届いているって話、聞いてないんですけど!」

「そこ閉めて。風が入る。絵の具が乾く」

「はいぃっ!?」


 叫びつつも後ろ手に扉を閉めると、フローレンスがため息をついた。


「何をそんなに怒っているの」

「だって……! ちゃんとご予定を教えていただけないと、準備ができません!」

「準備って、なんの」

「ブライト伯爵の晩餐会の話です。今さっき、伯爵家のメイドが尋ねて来たんですから! 参加されるんでしょう? 衣装とか、持ち物とか、いろいろ準備する者があるじゃないですかっ」

「それぐらい自分でできるよ、子供じゃないんだし」

「ご、ご自分で……って……」


 フローレンスは絶句する私に目もくれず、持っている筆の先を油壷に浸して、絵の具が積もって固まっているパレット上でさらに新しい色を練り始めた。


「正装の一つ二つくらいは衣裳部屋に行けば置いてあるし、靴の磨き方だって知ってる。女性じゃないから着替えに手間もかからないし、髪は櫛を通せばいい。先生の屋敷は徒歩圏内。馬車の手配もいらないし、ほら、自分でできるだろう」

「……そんな」


 そんなことを言われてしまったら、ありとあらゆるメイドわたしの仕事はなくなってしまう。


 たとえば洗濯に掃除。作業自体はそう難しいことではない。農家の子どもならそれだけでなく家事や育児、そして親と同じく農作業ですら手伝いをするのが普通だ。


 けれどここは、この国の女王が住まう宮殿。そして彼は、才能を認められて招待された女王の客人。雑務は、それを仕事とする人間にやらせるべきで、そしてその間に彼は彼の作品を描かなくてはいけないのだ。それが『身分』というもの。フローレンスは、もう、ただの田舎ウェーリの天才少年ではないのだから。


 何をどう説明しようと戸惑っているうちに、フローレンスは再び自分の世界に入りこんでしまったようだった。絵具箱からチューブを取り出して、片手で器用に蓋をあけ、次々に中身を絞り出していく。


 パレットの中央にはたっぷりの鉛白。そしてそのまわりに、コバルト・ブルー、コバルト・グリーン、テール・ヴェルト、エメラルド・グリーンの寒色グラデーションと、カドミウム・イエロー。


 そしてマダー・レーキディープ、ヴァーミリオン、テラ・ローザ、レッド・オーカーと赤系の絵の具が置かれる。


 何本も指に挟んだ平筆のうち、昨日とは違う細めのもので絵具を掬い取って、キャンバスの上でリズムよく手首を動かし始めた。とんとんと湿った摩擦音がする。


 ふと、美術館で観た彼の作品たちを思い出した。幼い私の心を奪った、あの力強くも華のある絵画たち。


 


    

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